イエス・キリストに心開くなら

2015.3.8主日礼拝「イエス・キリストに心開くなら」マルコ5:18-20、ヨハネ9:1-3佐々木俊一牧師

■聖書にはイエス・キリストとの出会いをとおして、その後の人生が変えられた多くの人々を見ることができます。私たちが生きている今の時代においても同じです。イエス・キリストとの出会いによって人の人生は変わるのです。出会いは、人生を左右するほどに大きな影響を与えることがあります。出会いが人生を決めると言っても過言ではありません。私たちにとって何にも増して、イエス様との出会いほど素晴らしい出会いはありません。

■マルコ5章に、悪霊につかれた男の話が出て来ます。彼もまた、イエス・キリストとの出会いをとおして、その後の人生が変えられた人の一人です。同じ記事が、マタイ8章とルカ8章にもあります。イエス様が弟子たちと共に、ゲラサ人の地、または、ガダラ人の地というところに行った時のことです。そこは、ガリラヤ湖の南東部、ヨルダン川の東側、現在のヨルダン領にあり、デカポリスと呼ばれた地方でした。そこでは、豚が飼われていたということですから、ユダヤ人が住む地域ではなく、いわゆる異邦人の住むところでした。この悪霊につかれていた男もユダヤ人ではなく、異邦人だったのでしょう。

  この男がどうして悪霊につかれるようになって墓場に住むようになったかはわかりませんが、推測できることは、彼がそうなりたくてなったのではなく、そのような状態から変わりたいと思っても自分ではどうすることもできなかったということです。そこへイエス様が来られて、その状態から救ってくださいました。そして、その男はイエス様についていきたいと願いました。しかし、イエス様はそれを許されませんでした。イエス様は言われました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」彼はイエス様のもとを去って、イエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、その地方で言い広め始めたと書いてあります。考えてみると、イエス様のもとを去った後、この男の行動について、福音書の著者はどのようにして知ることができたのでしょうか。マルコはペテロとは師弟関係にあり、この福音書はペテロの記憶をもとにマルコによって書かれたとも伝えられています。もしも、そうだとしたら、ペテロはどのようにして、この男の行動について知ることができたのでしょうか。彼に直接会って聞いたのか、それとも、他の人から聞いたのか、そこは想像するしかありません。イエス様の時には弟子として認められたのはユダヤ人だけでした。しかし、パウロやペテロの宣教に時代になると、ルカをはじめ何人もの異邦人の働き人が起こされていたことがわかります。もしかすると、この男もその一人として活躍していた可能性もなくはありません。

  推測の域を出ない中、確かなことは、悪霊から自由にされたこの男は、イエス様に心開き、イエス様を喜んで主として迎え、そして、人生が変えられたということです。イエス様に心開くなら、そして、イエス様を歓迎して自分の心の座に迎え入れるなら、その人の人生は変わるのです。

■イエス様との出会いで人生が変えられた人の話は、ヨハネ9章にも見ることができます。彼は目が不自由でした。この時代、目が不自由ということは、生きるためには物乞いをするしかありませんでした。そこへイエス様と弟子たちがやって来ました。弟子たちはイエス様にこんな質問をしました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」なんて無神経で思いやりのない質問でしょうか。でも、弟子たちがこんな質問をしたのにはわけがありました。病が罪の結果として起こるというのが一般的な考えだったのです。病と罪とはまったく関係がないとは言い切れませんが、この考えはあまりにも極端すぎます。このような病に対する偏見が人々を苦しめていました。

  しかし、イエス様の見方は違いました。イエス様の見方は愛と恵みに満ち溢れていました。イエス様は弟子の質問にこう応えました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」盲人にとってはイエス様のこのことばが、今までに聞いたことのない、まったく新しい発想、そして、それは希望と感動を与えることばだったでしょう。彼はイエス様に心開いて、イエス様の言われるとおりに行ないました。そうしたら、見えなかった目が見えるようになりました。この後、彼にとって大変なことが起こってしまいます。ユダヤ人のコミュニティーから追放されてしまったのです。でも、彼は以前の彼とは違っていました。真理のためならいかなる困難にも屈しない勇気が与えられた姿を見ることができます(9章後半)。イエス様に心開くなら、そして、イエス様を歓迎するなら、その人の人生は変わります。そして、神の力とみわざがその人に現されます。

■私は学生の時にアメリカ人宣教師と出会いました。それがきっかけで教会に行くようになりました。聖書を読みました。理解できないことがたくさんありました。それでも、イエス様に心開いて、信じてやってみようと思いました。今考えると、それは最高の選択だった思います。イエス様を信じたら、心が温かく感じました。イエス様を信じたら、人にやさしい気持ちを持てるようになりました。イエス様を信じたら、明るくなりました。イエス様を信じたら、あまり心配しなくなりました。イエス様を信じたら、悩まなくなりました。イエス様を信じたら、楽観的になりました。イエス様を信じたら、肯定的になりました。イエス様を信じたら、積極的になりました。イエス様を信じたら、不安や恐れが小さくなりました。イエス様を信じたら、生きることが楽しくなりました。イエス様を信じるなら、人生は変わります。イエス様に心開き、イエス様を喜んで迎え入れるなら、人生は変わります。イエス様を信じたら、私も変えられました。急激に変わったわけではありませんが、5年、10年、20年、30年と時間がたてばたつほど、ふり返ってみると、変えられたのがわかります。少しずつかもしれませんが、時がたつとその変化がわかります。イエス様を信じたら、人生はバラ色というわけではありません。たとえ、困難が許されたとしても、何とか乗り越えさせてもらいました。

■みなさんも、イエス様を信じてよかったと思うことがたくさんあると思います。思い出してみましょう。イエス様を信じたら変わるということを、イエス様をまだ知らない人に知らせてほしいと思います。もしかしたら、話してもあまり興味を示さないかもしれません。もしかしたら、反発されて関係が悪くなるかもしれません。でも、初めはそうでも、後で逆転することもあります。私の母なんかは、今は、私がクリスチャンであることや牧師であることを喜んでくれていますが、以前は、そうではありませんでした。私がクリスチャンになったために、親戚に顔向けができないというようなことも言われましたし、牧師なんかになって家族を養って行けるのかと言われたこともありました。もちろん、心配してくれていたのだと思います。でも、今は変わりました。月に2度母のところを訪問しています。帰り際には一緒に祈ります。私が祈った後、母もアーメンと言ってくれます。そして、子供の私に一礼して、「どうもありがとうございました」と言うのです。他人行儀だなあと思うのですが、母なりに、信仰のことを認めている証拠だと思います。

  クリスチャンになっても、いつも、イエス様に心を開いた状態でいたいと思います。神様は私たちの人生に神様のわざを現そうとしておられます。イエス様に心開くなら、イエス様を私たちの心の座に迎え入れるなら、私たちは変えられ、人生も変えられます。そして、神様のわざが現されます。