恵みによって生かされて

2015.2.22主日礼拝「恵みによって生かされて」エペソ2:4~9佐々木俊一牧師

■私は「恵み」ということばが大好きです。「救い」について語るとき、「恵み」ということばは絶対不可欠なことばです。今日の聖書箇所には、「恵み」ということばが4回も出てきます。ギリシャ語ではよく知られていることばで、「カリス」と言います。「カリス」は、「賜物(ギフト)」とも関係のあることばです。ヘブル語では恵みを、「ヘセドゥ」と言うそうです。このことばは、上の者が下の者に向かって用いるべきもので、下の者が上の者に向かって用いることはありません。また、「恵み」とは、行ないによらないで与えられること、与えられるに値しないのに与えられることです。救いは恵みであり、永遠の命も恵みです。

■4節 ここでは、神様はあわれみ豊かなお方であると言っています。神様の愛は大きいいのです。私たちはその大きな愛で愛されています。

■5節・6節 聖書には私たちにとって耳の痛いことがはっきりと書かれていることがよくあります。でも、それは、私たちを罪に定めるためではなくて、私たちを建て上げるためです。神様の目から見て、キリストを信じる前の私たちは、死んだも同然、生きるに値しないような状態でした。エペソ2:1~3に書かれてあるような状態の中にあったわけです。その時の私たちの命は束の間の命でした。このようなことは聞きたくないことではありますが、いずれ私たちは肉体の死を迎えます。その後どうなるのかわかりません。わからないというところが、恐いところです。死ぬということがどういうことなのか、体験によって、確かで信頼できる情報を提供してくれる人は誰もいません。

  私は時々思います。死ぬってことは、バンジージャンプで飛び降りるようなものだろうかと。ものすごく高いところからバンジージャンプで飛び降りる番組をいくつか見ました。挑戦した人が飛び降りる決心ができるまで、たいてい何時間もかかるのを見ました。恐怖心を克服するには時間がかかります。でも、一度飛んで大丈夫だということがわかると、2回目からは恐怖心を克服して楽に飛べるようになるのです。

  先ほど、死ぬということがどういうことなのか、体験をもって、確かで信頼できる情報を提供してくれる人は誰もいないと言いましたが、一人いました。それは、イエス・キリストです。死んでよみがえられたお方です。死んでも大丈夫ということを示してくれました。神様には私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせることができるのだと聖書に書いてあります。

  ローマ6:4に、「私たちはキリストの死にあずかるバプテスマによってキリストとともに葬られたのです。」とあります。イエス・キリストを救い主として信じた人々は、公けにそのことを告白するためにバプテスマを受けます。バプテスマの動詞形は「バプティゾー」で、「染まる、浸す」という意味です。ですから、バプテストの教会では、バプテスマは、浸礼で行ないます。バプテスマを受ける者はキリストとともに葬られてしまうのです。つまり、死んでしまうのです。バプテスマ式の半分は葬式です。しかし、ここで終わってしまったら福音(GOOD NEWS)とは言えません。その後、水の中から出て来ます。「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ」と聖書にありました。水の中から出てくるとき、それは、よみがえりを意味します。そして、それは、キリストとしっかりとつながって、新しく生まれ変わることです。先ほどは悲しい葬式でしたが、今度は喜ばしい結婚式です。ローマ6:4には、このようにも書かれています。「・・・キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」よみがえることは、新しく生まれ変わることです。そして、新しい歩みをするためによみがえったのです。

  新しい歩みをするとは、どういうことでしょうか。もう二度と、罪深い思いになることもなく、また、罪をおかさないことでしょうか。腹を立てることなく、憎むことなく、妬むことなく、落胆することなく、苦々しい思いになることなく、いかなる否定的な感情や汚れた思いも持つことなく、偽りを言うこともなく、常に、正しく、誠実で、寛容で、親切で、愛に満ちた行動をとることでしょうか。そうだとしたら、私には無理だと思います。

  私は、イエス様を信じてバプテスマを受けたならば、もう二度と罪深い思いになったり、罪を犯すことはなくなると思っていました。バプテスマを受けて初めのうちは良かったのですが、しばらくたつと、何も変わっていない自分に気づかされて、がっかりしたのと、そのことが誰かに知れたらまずいと思ったのを覚えています。そのことで数年悩みました。ですが、教会生活をしていく中で、それは自分だけではないことがわかってきました。イエス様を信じても罪深い思いにもなれば、罪も犯してしまうこともあるのです。そのような中にあっても、良い行ないを目標として持つことは自分の成長のために有効なことです。しかし、そうできない自分を神様が赦してくださっていることを私たちは覚えなければなりません。私たちの新しい歩みは、神様の恵みの中で導かれているのです。また、自分ができないことは他人もできないことを覚えなければなりません。神様は自分を赦してくださっているように、自分以外の人をも赦してくださっています。行ないによらず、恵みはいつもイエス・キリストを信じるすべての者たちとともにあるのです。新しい歩みは、神様の恵みがなければ成り立ちません。

  「(キリスト・イエスにおいて)ともに天のところにすわらせてくださいました」私たちはイエス様のおかげで、すでに神のみ国の住人なのです。天にはイエス・キリストを信じる人々のために居場所が確保されています。これはすでに完了していることなのです。

■7節~9節 「あなたがたは恵みのゆえに、信仰によって救われたのです」この恵みを受けるために、行ないは求められていません。行ないが求められるのなら、それは、恵みではなく報いになってしまいます。しかし、この恵みが有効になるためには、信仰が必要です。信仰とは、イエス・キリストを救い主として認めることであり、イエス・キリストが真の神であられ、神のみ国の王であることを認めることです。信仰があれば、その恵みに預かれるのです。「行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」行ないによるのではありません。すべてはイエス様のおかげです。ですから、私たちはイエス様に日々感謝と賛美をささげ、日曜日には共に集まって礼拝をささげるのです。

■私たちは神様の恵みによって生かされています。神様の恵みがなければ、私たちは途中で挫折して、もう、一歩も前に進んでいけない状態に陥ってしまうでしょう。神様の恵みがあるので、あきらめないで、何度も立ち上がって前に進んでいくことができます。しかしながら、神様の恵みがあるからと言って、いつも神様の恵みに甘えてばかりいるとしたら、それもよくありません。自分はキリストと共に十字架につけられて死んだのだということを明確に認めることが大切です。死んで、新しく生まれた後は、恵みによって生かされているいのちです。ですから、神様が喜ばれるように生きていくことを願う者になりたいと思います。

  あわれみ豊かな神様は、私たちのすべての罪を赦し、その大きな愛ゆえに、私たちを今も生かしてくださっています。私たちは恵みによって生かされている者です。この恵みの中で、私たちが正しいことをことごとくやることによって私たちが変えられるように導かれているのではありません。私たちは、神に赦されて、愛されて、そして、愛することを学ぶことができました。私たちは今、恵みの中で、神を愛し、人を愛することを通して、私たちが変えられるように導かれているのです。それが新しい歩みであり、恵みによって今も生かされている理由です。