心は燃えていても

2015.2.1主日礼拝「心は燃えていても」マタイ26:41佐々木俊一牧師

■「Son of God」という映画を見ました。印象的な場面や聖書のことばがいくつかありました。この場面は聖書に書かれていることと違うなと思われるところもありました。脚本家の解釈なのかもしれません。あるいは、映画をおもしろくするための脚色なのかもしれません。今までに、イエス・キリストを描いた映画は少なくとも10本はあると思います。それぞれに、特色があり、表現の仕方があるのだと思います。この映画では、人としてのイエス様と神としてのイエス様の両方が描かれていたように思います。映画によっては、神としてのイエス様を強調しすぎて神秘的な雰囲気ではあるのだけれども、無表情で親しみやすさや温かさに欠けていると思われるものもあったように思います。イエス様は人であり、神なるお方です。ですから、人間的なところがあり、神様的なところがあって当然です。この映画を見て、私自身、学ばされたことがあり、また、新しい発見がありました。今日は、捕えられる直前までゲッセマネの園で祈っておられたイエス様の姿を思い起こしながら、いくつかのことをお話ししたいと思います。

■36節 イエス様と弟子たちは「ゲッセマネ」というところに行きました。ゲッセマネというところはどんなところなのでしょう。画像を見てみましょう。①城壁に囲まれたエルサレムの旧市街です。これは、約15年前の写真です。オリーブ山中腹にあるセブンアーチーズホテルから撮った写真です。イスラエル兵が写っています。現在の城壁はオスマントルコが1500年代に建てたものです。中央に東の門(黄金門)があります。エゼキエル書43章と44章に出て来ます。左手側に、イスラム教のモスク(黄金ドーム)があります。この場所に、1945年前までは、神殿がありました。城壁の外側は墓地になっています。②東の門(黄金門)です。ここから、イエス様は子ロバに乗ってエルサレムに入場したと言われています。今は、門は閉じたままです。③東の門の反対側に、オリーブ山があります。その麓にゲッセマネの園がありました。現在、そこには、教会があります。その隣に庭があって、オリーブの木がたくさん植えられています。④その中には樹齢1000年以上のものもあるそうです。

   ゲッセマネとは、「油しぼり」という意味です。オリーブの実はオリーブオイルの原料になります。石臼でオリーブの実をつぶし、砕き、そして、油を搾りだすのです。オリーブを人にたとえるなら、オリーブの気持ちはどんなでしょう。つぶされて、砕かれて、油を搾り取られるのですから、痛いじゃないですか。けれども、オリーブの実から出てきた油は、貴重で有用なオリーブオイルです。料理になくてはならないものですし、暗闇を照らすための油としても使われました。その他に、薬用として、化粧用として、儀式用として用いられました。私には、オリーブ油がイエス様を表しているように思われるのです。イエス様は引き裂かれ、砕かれ、その結果、私たちをいやし、闇を照らし、私たちを救いへと導き、人生を味のある豊かなものとしてくださるでしょう。新約聖書では、オリーブ油は聖霊の象徴として語られています。イエス様が十字架にかけられ、死んで三日目によみがえり、それから40日後にオリーブ山から天に戻られた後に、聖霊が地上にくだされました。この出来事は使徒の働き2章に書かれていることです。

   イエス様は弟子たちを連れてゲッセマネの園に祈りに行きました。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」イエス様は、ペテロとヨハネとヤコブ以外の弟子たちは残して、この3人の弟子を伴ってもう少し離れたところで祈り始めました。その祈りは、悲しみ悶える祈りでした。イエス様を待ち受けていたことは、残酷な十字架刑です。イエス様はそれを知っていて苦しまれたのです。人としてのイエス様にとって、十字架刑は耐え難いことです。できることなら、避けて通りたいことでした。人は誰でも苦しみや痛みは嫌いです。できることなら、困難は避けて通りたいものです。避けて通ることのできる困難は避けてよいのですが、どうしても避けられない困難が人生にはあります。私たちだって、40、50を過ぎれば、一度や二度は避けたくても避けられない困難を体験しているのではないでしょうか。

■39節 イエス様はこのように祈っています。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、私の願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

   神様は私たちの願いに答えてくださるお方です。しかし、時には、私たちの願いの通りに事が進まないことがあります。そのような時、私たちはどうするでしょうか。神様なんて本当は存在しないのではないだろうか、と疑い深くなるでしょうか。祈っても聞いてくれない、不幸や不条理がまかり通っている、そんなことを許す神なんて、信じてたまるものか、と思うでしょうか。

   イエス様はできることなら、恐ろしくて、苦しい十字架刑という杯を飲まなくてもよいようにしてくださいと願いました。しかし、イエス様は、その気持ちとは逆に、その杯を飲まなければ、神様のみこころは成し遂げられないことも知っていたのです。ですから、イエス様は、自分の願うようにではなく、神のみこころがなされるように、と祈りました。自分の願うようにならないとしても、それでも、神様にゆだねて、信じて、従うことを、ここで告白しているのです。

信仰のだいご味は、祈りさえすれば間違いなくその通りになる、あるいは、願い事はすべてかなう、仕事もうまくいくし、金も儲かる、病気も治るし、試験も合格する、このようなご利益的な結果の中に見出されるのでしょうか。確かに、神の栄光がそのような形になって現されることはあります。しかし、必ずそうなるとは言い切れません。本当の信仰のだいご味は、たとえ自分の願った通りにならなかったとしても、それでも、守られて生かされている自分に気付かされ、さらに、神様にゆだねて従っていくその先に、きっと、自分の思いを超えた神様の計画が成し遂げられるのだと信じることにあると思います。そして、神の栄光は私たちの目に見えないところにも現されるのです。たとえば、私たちの内面の成長として表されたり、また、天に宝を積むという信仰のあり方として表されます。

■40節・41節 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」このメッセージは、イエス様が弟子たちに向かって語ったことである、と私はとらえていました。でも、「Son of God」という映画を見て、気づかされました。確かに、これは、弟子たちに向けて発信されたメッセージではあります。けれども、ここでイエス様はご自分にも向けて言っていることばであるということに気づかされました。こう言ってすぐに、イエス様は再び祈りに行ったからです。

   イエス様は神であられるお方です。けれども、罪はありませんが、人としての弱さはありました。人であるゆえに、まったく人と同じ弱さ、特に肉体の弱さを体験されました。腹がへったらいらいらしてくるでしょう。イエス様が空腹だったとき、イチジクの木に実がなっていませんでした。この時に実がないのは仕方ないことでした。時期ではなかったのですから。でも、イエス様は、この木が将来、実をつけないようにこの木に向かって行われました。すると、その木は枯れてしまったのです。それを見た弟子たちは驚きました。もちろん、イエス様には意図することがあったのだと思います。また、イエス様はのどが渇くのです。サマリヤの女から水をもらいました。また、イエス様も多くの人を相手にしていると心も体も疲れるのです。イエス様は一人寂しいところに行って、父なる神様とまじわり、祈り、休息を得ました。神なるお方は人のからだをもって、人のからだの弱さとその限界を体験されたのです。だからこそ、イエス様は私たち人間に対して情け深く、悲しみも苦しみも理解してくださるのです。へブル4:15にこのように書かれています。「私たちの大祭司(イエス様)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたがすべての点で私たちと同じように試みに合われたのです。」

   イエス様は、人としてのご自分の弱さを知っていたのだと思います。ですから、イエス様は、ゲッセマネの園において、3度続けて同じことをくりかえしお祈りしています。十字架の時が近づくと、イエス様はもっとそのために祈ることが必要だと感じたのでしょう。イエス様は、心は燃えていても肉体は弱いことを知っていました。どんなに熱い信仰があったとしても、肉体は弱いのです。人は誰でも、痛いことや苦しいことには弱いのです。だから、イエス様は祈りました。祈りには何か特別なことがあるのでしょうか。ゲッセマネの園で祈るイエス様のことばの中に、私たちは見つけることができます。イエス様は神様に、痛いのも苦しいのも避けさせてほしいと願いました。十字架にかからなくても良いように願いました。けれども、祈れば祈るほど、それは神様のみこころではないことを知らされ、ご自分に与えられた使命が、より鮮明になっていくのです。祈りをとおして、私たちの考えが神様の考えへと軌道修正されます。そして、神様のみこころを見出し、神様のみこころに従う力をも、祈りをとおして与えられます。祈りをとおして、私たちは神様のみこころをまっとうするために必要な導きと力をいただくのです。イエス様は、私たちに模範を示し、そして、同時に、それによって、必ず、守られることをも教えてくれているのです。   

   祈りは単に自分の願いを聞いていただく手段ではありません。祈りは単に自分の願いを実現するための手段でもありません。祈りは、私たちがイエス様に従っていくために、あるいは、神様から受けた使命を成し遂げるために、必要な導きと力を与えてくれるものです。心は燃えていても、肉体は弱いのです。日頃の神様への態度、祈りのあり方は、必ず、私たちの弱さを助けてくれます。祈りを通して、神様ともっと親しくなりましょう。そして、神様から導きと力を受けましょう。