主のみこころなら

2015.1.4主日礼拝「主のみこころなら」<ヤコブ4:15>佐々木俊一牧師 

■新しい年を迎えました。21世紀も15年目になります。聖書には、新年について書かれている箇所がいくつかあります。たとえば、出エジプト記12章です。モーセがイスラエルの民をエジプトから連れ出す時に、この時を「新年」、つまり、新しい年の始まりの月とするように、神様は言われました。西暦の月でいうと、3月中旬から4月中旬です。過越しの祭りがある月であり、また、イエス様が十字架にかかって死んで3日目によみがえられた月でもあります。

   新年には、パン種の入っていない「マッツォ」というパンを食べる習慣があります。日本でも似たような習慣があります。もちを食べます。今は、一年中食べられますが、昔は、もちと言えば正月の食べ物でした。元旦から1週間はもちを食べるのが習慣だったそうです。また、新年を迎える前に大掃除をします。それは、パン種を家から完全に取り除くためです。聖書の中では、パン種は罪の象徴として扱われています。そして、新年の一日目は仕事をしてはいけません。家で家族と共に過ごすのです。日本にもそのような習慣がありました。大掃除をして新年を迎えるのです。元旦から掃除をしたり、料理をしたり、仕事をしたりするのは、良くないことと考えられていたように思います。また、日本では、大みそかの夜は、午前0時を回るまで家族のみんなが寝ないで新年を迎えたものです。新年を迎えると同時に、神社にお参り行きます。神社に行くと、まず、鳥居があります。次に、狛犬が両側にあります。狛犬と言っても、犬というよりも、ライオン(獅子)です。一つは、「あ」という口を開け、もう一つは、「ん」という口で閉じています。考えてみると、「あ」と「ん」は日本語のアルファベットの初めと終わりです。聖書には、イエス・キリストのことを、アルファでありオメガであるお方、初めであり終わりであるお方と言われています。アルファとはギリシャ語アルファベットの初めであり、オメガは終わりです。神道は日本独自の宗教と言われていますが、旧約聖書の慣習に非常に類似した点が多く見られます。ですから、キリスト教にしても、ユダヤ教にしても、外国の宗教だから日本人には関係ないなどと簡単に片づけられることではありません。日本という国も日本人という民族も、世界の中に属しているのです。歴史を遡ってみるならば、きっと、キリスト教やユダヤ教と、どこかでつながっているのだと私は考えます。

■15節 この箇所の前後を読むならば、もしかすると、何か不自由な印象を持つかもしれません。何をするにも、主の御心を伺わなければなりません。たとえば、極端な例ではありますが、今日の夕食は何を食べることが主の御心だろうかとか、今日はどの服を着ることが主の御心だろうかとか、このように、いかなることにも主の御心を求めなければならないとしたら、それは、息の詰まるような状況です。何を食べるのも、何を着るのも、それは自由です。神様は、私たちを束縛するために、「主の御心なら、私たちは生きていて、このことを、また、あのことをしよう。」という生き方を求めているのではありません。そうではなくて、もっと人として心豊かな人生を送るために、このようなことを言っているのです。また、この箇所は、命も人生も、価値のない、意味のないものだと言っているのでしょうか。この地上のことには関心を持たず、情熱を傾けず、否定的で消極的に生きることを勧めているのでしょうか。神様のことだけを考えて、天のみ国のことだけを思っていればいいのだと言っているのでしょうか。私たちが、この地上においては、否定的に、消極的に生きるために、「主の御心なら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう」と言っているのでしょうか。そうではありません。商売をすることも、金もうけをすることも自由です。しかし、もし、私たちが神様を抜きにして、自分の人生を生きるなら、また、神様の御心を思うこともなく、自分の好き勝手に生きるなら、そして、この地上のことだけに自分の思いが支配されるなら、私たちは人生で一番大切なものを見失ってしまうかもしれません。「主の御心なら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」と書かれているのは、私たちが一番大切なものを受けとることができるためであり、地上の人生が、もっと豊かで、充実した、意味のあるものとされるためです。

   それでは、「主の御心なら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」という生き方がどのような生き方なのか、三つのことをお話ししたいと思います。

①主(神)に聞く態度を持って生きる:聖書には、何事でも神の御心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださると書かれています。神の御心にかなう願いとはどのようなものでしょうか。一つは、願いの内容です。願った内容が神の御心にかなうことであるならば、その願いはかなうのです。もう一つは、願いの動機です。願った動機が神の御心にかなうのであれば、その願いはかなうのです。自分の願いが神の御心であるなら、それは必ずなるのです。しかし、その願いが御心なのかどうかは、結果が出るまでわからないとも言えます。時には早く結果が出る場合もあれば、結果が出るまで長い時間を要することもあります。なかなか結果が出ない時に、何度も、何度も、しつこく祈ることは信仰的なことと言えるでしょう。ですから、それは良いことではあります。けれども、神様には他の計画があるとしたらどうでしょうか。この場合、私たちの願いを祈り求めるだけではなく、神様は何と言っておられるのか、どのように導いておられるのか、聞くことが必要なのです。神様に聞いて、時には、ただ待つだけではなくて、一歩踏み出すことが必要な時もあります。また、時には、自分のこだわりを捨てたり、動機を改めたりしたのちに、向きを変えて進まなければならないこともあります。「主の御心なら、私たちは生きていて、このことをしよう、または、あのことをしよう。」というのは、主に聞く態度をもって生きることです。

②主に感謝を表して生きる:私たちは一人一人、神によって生かされています。人間だけではありません。人間に比べると価値がないと思われるような雀でさえも、神の意志によって生かされています。神様はご自身が造られた被造物を見てよしとされ、喜ばれました。神様はご自身の作品を愛しておられます。私たちにとって、この地上に生かされていることはすばらしいことであり、感謝なことです。でも、この地上の命には限りがあります。ゆえに、神様は愛する者たちのために、永遠の命を備えてくださいました。将来、その命を私たちは神のみ国において体験することになるでしょう。この地上の命も将来の計画も神様の与えられるものは本当にすばらしいものです。私たちはこれに対して、どのようにして主に感謝を表すことができるでしょうか。「主の御心なら、私たちは生きていて、このことをしよう、または、あのことをしよう。」というのは、主に感謝を表して生きることです。

③主に信頼して生きる:主に聞く態度をもって生きているつもりでも、また、主に感謝を表して生きているつもりでも、いつもいいことばかりではありません。うまくいかないと感じることもあるのです。しかし、そのような中にあっても、主に聞く態度をもって、主に感謝を表して生きるときに、神様の計画が見えないところで進んで行くことを覚えましょう。後になって、目に見える形での神の栄光と、目に見えないところでの神の栄光が豊かに表されるのを知るでしょう。聖書の中に登場する信仰の人々を通して私たちはそのことを見ることができます。また、今日、ここにともに集まっている多くの方々がそのことを体験しているのではないかと思います。「主の御心なら、私たちは生きていて、このことをしよう、または、あのことをしよう。」というのは、主に信頼して生きることです。

   2015年を、「主の御心なら、私たちは生きていて、このことをしよう、または、あのことをしよう。」という年にしたいと思います。その中で、個人としても、教会としても、神様のわざと祝福を見ていきたいと思います。それではお祈りします。