感謝の心を持つ人

2014.12.28主日礼拝「感謝の心を持つ人」<コロサイ3:15~17>佐々木俊一牧師 

■15節 「キリストの平和」とは何でしょうか。「平和」と聞くと、まず、思うのは、その正反対のことばです。それは、「戦争」です。ですから、平和とは、戦いや争いのない状態です。しかし、ギリシャ語やヘブル語には、もっと広い意味があります。平和はギリシャ語で「エイレーネ」、ヘブル語で「シャローム」です。「シャローム」はユダヤ人にとって、あいさつのことばです。朝も、昼も、夜も、「シャローム」は使われています。シャロームは、相手を祝福することばです。エイレーネもシャロームと同じ意味を持っているそうです。「平和」のほかに、「平安」、「繁栄」、「健康」、「和解」などの意味があります。それでは、「キリストの平和」とは、どのようなものでしょうか。それは、簡単に言うと、キリストによってもたらされた神様との和解(仲直り)であり、それによって与えられた神様との平和な関係です。救い主なるキリスト・イエスが、神と人との間にはいって、敵対関係を終わらせてくださり、和解(仲直り)の道を設けてくださったのです。イエス・キリストを救い主として信じる者にとって、イエス・キリストは、和解、平和、平安、繁栄、健康など、神のすべての祝福の基なのです。

   「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」とあります。どいうことでしょうか。「支配する」という表現は、正直言って、あまり良い印象を受けません。自由を奪われるような感じを受けます。ですから、支配すると言うよりも、治めると言った方が良いでしょう。「キリストの平和が、あなたがたの心を治めるようにしなさい」キリストによって神様との間に平和な関係が与えられています。この平和の関係を保つために、私たちは神様の言われることに従うことが求められています。しかし、それによって、私たちは不自由になるのでしょうか。いいえ、なりません。反対です。私たちを自由にしてくれるのです。神様の言われることは、無理で非常識なことではありません。常識的で、妥当なことです。ですから、キリストの平和が私たちの心を治めるために、私たちは神様の言われることに従いたいと思います。たとえば、15節の終わりに、「感謝の心を持つ人になりなさい」とあります。これは、神様が私たちに望んでおられることです。キリストの平和が、私たちの心を治めるために必要なことの一つは、私たちが感謝の心を持つ人になることです。「平和」と「感謝」はセットのようなもので、共にあって働くのです。もしも、私たちが、家庭や教会、あるいは、学校や会社、さらに、もっと大きな人間の集団であっても、平和を望むならば、感謝の心を持つ人になることです。

■16節 「キリストのことば」とは、「神のことば」です。神のことばには力があります。へブル4:12に、「神のことばは生きていて、力があり・・・」と書かれています。私たちのうちに神のことばを豊かに住まわせるならば、そして、神のことばを大切に思い、それに従って生きるならば、私たちは神のことばの力によって良い影響を受けるのです。

      Ⅱテモテ3:16にこう書かれています。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」「神の人」とは、神を信じる人々のことです。神を信じる人々は、聖書のことばを神のことばとして大切に思います。神のことばを大切に思う人々は、神のことばに従います。そして、人として、信仰者として、成長していくのです。

   私たちのうちに神のことばを豊かに住まわせましょう。そして、従いましょう。しかし、どうでしょうか。100%従うことができるでしょうか。私は自信がありません。でも、それでいいと思います。この地上に生きていれば、世の価値観の影響をまったく受けないでいることは不可能なことです。でも、そのような中にあっても、神のことばに従うことの大切さを忘れないでいたいと思います。まずは、自分のできるところから始めることです。30%の従い方であれば、30%の実を結ぶでしょう。60%の従い方であれば、60%の実を結ぶでしょう。80%の従い方であれば、80%の実を結ぶでしょう。大事なことは、それを続けることであり、習慣になることです。

   次に、「感謝にあふれて、心から神に向かって歌いなさい」とあります。人に向かって感謝するよりも、神様に向かって感謝することの方が、どちらかというとやりやすいのではないでしょうか。なぜなら、神様に対しては感謝する理由がたくさんあるからです。たとえ、同じことを何度も感謝したとしても、神様はその感謝を受け取ってくださると思います。もしも、他人に対して同じことをするならば、しつこい人だなあと思われるかもしれません。

   私は、朝のデボーションの中で、まず、主のみ名をほめたたえ、感謝をささげます。それから、お祈りに入ります。感謝をささげることは、自分を低くすることでもあります。自分を低くする者に神様の祝福は豊かに注がれます。また、私自身、感謝をささげることにより、神様との関係が築き上げられるように感じるのです。ですから、神に感謝をささげることはとても大切なことです。

   詩篇100:4に、このように書かれています。「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。」この箇所を読むと、モーセの幕屋を思い起こします。幕屋は3つの部分からなっています。幕屋の門を抜けると、大庭が広がっています。大庭の後方には聖所があり、その奥に至聖所があります。至聖所には神様の御座があり、神様にお会いするところとなっています。

      日曜日の礼拝において、テンポの速い賛美で始めていることにお気づきかと思います。それは、幕屋の門を通り抜けて大庭に入るようなものです。大庭は、いけにえをささげるところです。私たちはいつも晴れやかな気持ちで礼拝に来るとは限りません。時には落ち込んでいることもあるでしょう。そのような時は、礼拝に参加したくないものです。けれども、それでも、行くことを選んで神様に賛美と感謝の歌をささげるとき、それは、賛美のいけにえであり、感謝のいけにえとなるのです。神様はそのような捧げものを喜ばれます。そして、礼拝が終わって気付くのです。不思議なことに、内側に平安と喜びが回復しているのです。賛美のいけにえや感謝のいけにえをささげるとき、神様は豊かに働かれます。ですから、礼拝において、感謝にあふれて、心から神に向かって歌いましょう。それは、私たちにとって益になることです。神様はそのことをよく御存じです。私たちの内側は、礼拝の中で、修復し、回復するのです。健全な状態にされ、健全な状態に保たれるのです。

■17節 いつも神様のことを覚えて、神様に感謝をささげることが習慣となっていくとき、私たちは感謝の心を持つ人になるのだと思います。感謝の心を持つ人は、自ずと、ことばも行ないも神の御心にかなうものと変えられていくのだと、私は考えます。

   実は、このメッセージを準備している時に、私自身、感謝することを学ぶ機会が与えられました。いつも、私は、ある程度、メッセージの内容を紙に書いてから、パソコンで打ち込むのですが、今回は、時間がなくて、直接、パソコンで打ち込んでいきました。短い間隔で上書き保存をすればよかったのですが、しなかったものですから、困った状況に陥ってしまいました。もう少しで終わるところだったのですが、何を間違ったのか、半分が消えてしまいました。その瞬間、頭がくらくら、指が止まりました。あきらめるにもあきらめきれず、何とか修復しようとしたのですが、だめでした。完全に消えてしまいました。しばらく沈黙し、つぶやきモードに入りかけたときに、それをやめて、「感謝します」と口に出して告白しました。とにかく、いったん止めて、家に帰ることにしました。夕飯を食べてから、再度取り掛かることにしました。「感謝します」と口に出したことがよかったのだと思います。気持ちは感謝モードで、何とか準備することができました。

   パウロは、3:15~17の中で、3度、感謝するように言っています。クリスチャンライフにおいて、感謝することはかなり重要なことと思われます。パウロは、「感謝の心を持つ人になりなさい」と言っています。私たちは、そのために、感謝するという学びがあり、訓練があります。特に、神様に感謝をささげることが勧められています。それにより、私たちは自分を低くし感謝する心の態度を身に着けることができます。感謝の心を持つ人を用いて、神様は平和のために豊かに働かれます。今年一年を振り返って、今一度、神様に感謝をささげる時を持っていきましょう。