闇に輝く光

2014.12.14主日礼拝「闇に輝く光」<ヨハネ1:5>佐々木俊一牧師 

■毎年恒例の清水寺での世相を表す漢字が発表されました。「税」だそうです。今年の4月から消費税が8%になりました。さらに、来年からは10%の予定でしたが、景気が期待するほどに上向かなかったので延期することにしたようです。5年前(2009年)の私の手帳を見てみると、その年の漢字は「新」と書いてありました。新型インフルエンザが流行った年でした。アメリカでは、共和党から民主党へ、オバマ大統領が就任した年でした。日本では、自民党から民主党へ政権が変わった年でした。何かが新しくなることによって、きっと何かが変わると人々は期待したのでしょう。5年が経ちました。どうでしょうか。期待と現実のギャップに熱は冷めました。その代わりに、怒りと失望が漂っているように思われます。けれども、何かを変えるには5年は短すぎます。目先のことにとらわれ過ぎないで、もっと長い目で物事を見ることが必要ではないかと思いました。神様ほど長い目で見ておられる方は、他にはいないのではないでしょうか。

■ヨハネの福音書は12弟子のひとり、ヨハネによって書かれました。ヨハネは、弟子たちの中でも、一番長生きした人です。今年トルコ西部のエペソの遺跡に行ってきましたが、そこには、イエスの母マリヤとヨハネが一緒に住んでいたと言われる家の跡があるそうです。探してみましたが、結局どこかわかりませんでした。その後、ヨハネは捕えられてエーゲ海に浮かぶパトモス島に流されました。AD100年くらいまで生きていたそうです。福音書の他に、ヨハネの手紙Ⅰ・Ⅱ・Ⅲと黙示録を書きました。

  ヨハネの福音書1章を読むと、創世記1章の初めの語り口調に何か似たものを感じるのではないでしょうか。聖霊の導きに従った結果、そうなったのかもしれません。創世記もヨハネの福音書も同様に、「初めに」で始まります。神は初めからおられる方であって、そのことが前提として語られています。また、創世記には、天と地の創造や人の創造について書かれています。それに対し、ヨハネは福音書で、「人は御霊によって新しく生まれなければ神の国に入れない。」と記し、人が新しく造り変えられることについて語っています。創世記は目に見える世界の創造について語り、ヨハネは目に見えない世界の創造について語っています。聖書の最後の書、黙示録においては、新しい天と新しい地、神の御国のことが書かれています。さらに、創世記においては、闇の中で神のことば、「光よ。あれ。」が発せられると、闇に光が輝き、そして、神の創造のわざが進んで行くのを見ます。そして、ヨハネの福音書1章にも「光」が出て来ます。

■5節 「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」と書かれています。この箇所に、「光」ということばが出てきます。7節と8節と9節にも「光」ということばがあります。光は、闇の中で輝いています。まるで、創世記の始まりのようです。「光」は何を表しているのでしょうか。先を読み進めて行くと、これは、人のことを言っているのがわかります。その光は、すべての人を照らすまことの光であると言うのです。そして、その人が世に来ようとしていたということです。

■10節 「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」とあります。この方は、前にこの世界にいたようです。この方がこの世界を造ったのだと言っています。宇宙も、無数の星も、地球も、そこにある自然と生物も、人間も、あらゆる人種、民族、国民、すべてのものを造りました。旧約聖書の箴言8:22~31を見ると、これに似た事柄が書かれています。「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」 神は唯一のお方ですが、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神のお方であることが聖書を通してわかることです。神学用語でそのことを三位一体と言います。箴言8章によるならば、子なるキリストが、被造物の創造に関わっていたのです。しかし、世の人々は、そのことを認めませんでした。

■11節を見てみましょう。「この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」ご自分の国とは、イスラエルと言ってよいでしょう。イスラエルはとても小さな国ですが、重要な位置にあります。ヨーロッパとアフリカとアジアのちょうど中心にあるのです。あまりにも良い場所にあるものですから、どこの国もこの場所が欲しいと思いました。国々はこの場所を手に入れるために争ってきたのです。イスラエルの民の僅かな人々はこの方を受け入れました。けれども、大多数の人々はこの方を拒絶しました。この方とは、17節にありますね。それは、イエス・キリストです。

  この方の国がイスラエルであると先ほど言いましたが、その理由は、その家系図にあります。マタイ1章を見ると、アブラハムから始まってイエス・キリストに至ります。ルカの福音書でも、始まりはすべての人類の先祖であるアダムまで遡りますが、途中、アブラハムがいて、イエス・キリストへとつながっています。

旧約聖書では、イスラエルを永遠に治める王なるお方は、アブラハムの子孫、イサクの子孫、ヤコブの子孫から出ると言われています。ヤコブはイスラエルとも呼ばれています。そのヤコブには12人の息子がいました。その中にユダという息子がいます。救い主は、ユダの子孫、エッサイの子孫から出ると旧約聖書に書かれています。エッサイはダビデの父で、ダビデの祖父はオベデ、ダビデの曽祖父はボアズ、ボアズはルツ記に出てきます。彼はユダヤ人(サルモン)とカナン人(遊女ラハブ)の間に生まれた子です。そのボアズはモアブ人のルツと結婚しました。ボアズとルツの子はオベデ、オベデにはユダヤ人とカナン人とモアブ人の血が流れていました。その後に続くダビデにも同様に異邦人の血が流れていたはずです。イエス・キリストの系図に異邦人の血が流れているというのは非常に驚くべきことであり、また、興味深いことでもあります。さらに、救い主なるお方が、ダビデの子孫、ソロモンの子孫から出て、イスラエルという国を永遠に治める王となることが旧約聖書に書かれています。

■14節 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。この出来事が初めてのクリスマスです。今から約2000年前に、イスラエルの民が長い間待ち望んで来た救い主なるお方がやっとお生まれになりました。神様は、このクリスマスという出来事のために、「イスラエル」という国を選びました。この出来事が起こる、ずっとずっと昔から、イスラエルの預言者たちによって予告されてきました。そして、ベツレヘムという町でキリストは生まれした。ミカ5:2によるならば、救い主は、ユダ部族でもベツレヘム出身者から出るのです。見てみましょう。・・・ベツレヘムはヨシュアの時代にイスラエルの12部族の一つユダに与えられた土地の一部であり、ダビデ王の出身地です。イエス・キリストの家系図によるならば、ヨセフもマリヤもダビデの子孫なのです。     

  また、神様は、乙女マリヤを選んで、マリヤによってキリストは生まれました(イザヤ7:14)。しかし、この赤ちゃんは、マリヤとも夫ヨセフとも血のつながりはありません。聖書には、聖霊によって身ごもったとあります。イエス・キリストは、聖霊によって、人の体に造られ、人間の世界に入って来ました。神なるお方が人の体をもってこの地上に生まれてくる理由は何だったのでしょうか。二つのことをお話ししたいと思います。一つは、目に見える形で神様の愛を知らせるためです。キリストは人々の間に住んで、神様がどんなに人々のことを愛しているのかを知らせてくださいました。ある時は、病のために希望を見いだせないで苦しんでいる人々をいやしました。ある時は、あまりにもの罪深さのために人々から仲間はずれにされているような人々を受け入れ、ともに交わり、神の愛を示しました。ある時は、奇跡によって神の圧倒的な力を表し、人々の信仰を回復しました。希望を見いだせず、傷ついた人々の心に、もう一度、信仰と愛と希望を回復するために働かれたのです。イエスを通して、人々は神の愛を知らされました。その愛が、最も表されたのが、十字架の出来事です。そして、復活は、人々の将来に大きな希望と可能性を示してくれました。

■12節・13節 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」イエスの名を信じた人々には、神の子どもとされる特権が与えられます。特権ですから、いろいろな特典があるのでしょうね。きっと、この地上では受けることのできないようなすごい特典であることは間違いありません。また、その人々は、神によって生まれた人々と呼ばれています。ヨハネ3章に出て来るパリサイ人のニコデモに、イエス様はこんなふうに答えています。「人は新しく生まれなければ神のみ国を見ることはできません。人は水と御霊によって生まれなければ神の国に入ることはできません。」イエス様がこの地上に来られたもう一つの理由は、人々に御霊による新しい命を与えることです。イエス・キリストは、神の愛を伝え、御霊による新しい命、永遠の命を与えるために人となられたのです。

■ヨハネ1:5「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。新共同訳)」

闇には二つあると思います。両者は相互に関わっています。心の闇と社会の闇です。いつの時代においても、心と社会の闇は変わることがありません。現在、世界はいろんな分野で豊かになり、社会は一見豊かに見えます。けれども、心の闇と社会の闇が歴然としてあることは、毎日流れるニュースを聞いていてわかります。私たち人間は、これらの闇を治めることができないでいます。ただ、心の闇に光が灯された人々は、個人的に闇(罪)の問題から自由にされています。

  今日はアドベントの3週目です。アドベントの意味は、到来、または、現れです。私たちは私たちの光、希望である救い主、イエス・キリストの到来を待ち望む者です。2000年前に、マリヤとヨセフをはじめ、救い主を待ち望んでいた人々のように、私たちクリスチャンは、救い主を待ち望んでいる人々なのです。イエス・キリストが再び来られる時、心の闇も社会の闇も、私たちの光である救い主イエス・キリストによって、すべてが終わる時なのです。その時が来るまで、イエス・キリストを待ち望む者たちが闇の中の光、闇の中で輝く光として召されています。闇はなかなかイエス・キリストの光を理解しないかもしれません。けれども、目先の結果に一喜一憂することなく、イエス様に信頼して、たんたんと闇の中に輝く光でありたいと思います。それでは、お祈りします。