神の手の下で

2014年11月23日 主日礼拝 「神の手の下で」Ⅰペテロ5:5~7佐々木俊一牧師

同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるからです。

■日本では、「神の手」という表現を人に対して使っているのを時々耳にします。いつだったか、NHKの番組で、「神の手」を持つ外科医というキャッチフレーズで紹介されていたのを覚えています。卓越した技術によっていかなる困難な手術をも成功させてしまうスーパードクターなので、人はそれほどまでに賞賛したいのだと思います。今日は、本物の神様の手の下における神様の働きについて、お話ししたいと思います。

■5節 ペテロはここで、「若い人たちよ」と呼びかけています。実際に年齢が若い人たちなのか、クリスチャンになって間もない人たちなのか、どちらとも取れるのではないかと思います。どちらにしても、この箇所は、すべてのクリスチャンにとって大切な教えであることには変わりはありません。それでは、若い人たちに、ペテロは何と言っているのでしょうか。「長老たちに従いなさい」です。長老とは教会のリーダーたちのことです。若い人たちは、教会のリーダーたちに従うように言っているのです。この箇所からちょっと戻って、1節から4節を見てみましょう。そこは、教会のリーダーたちに語られているところです。教会の人々のお世話を、報酬によらず、心を込めて熱心に行なうように言っています。また、上下関係によるのでもなく、偉そうにふるまうのでもなく、自らが良き模範となって人々を導くように言っています。

   最近、このようなリーダーの在り方が、企業においても注目されてきています。いわゆるサーバントリーダーシップと言われているリーダーの在り方です。これまでの一般社会におけるリーダー像とは異なります。仕えられるリーダーではなく、仕えるリーダーです。もちろん、これは、日本で始まった考えではありません。アメリカです。ですから、聖書の教えに影響を受けていることは言うまでもありません。そのようなリーダーの在り方が、人間関係のストレスを軽減し、各社員の能力を発揮し、能率的で意欲的に仕事に取り組める環境を作る良い方法だと気づき始めているのです。

   私たちの教会はどうでしょうか。もちろん、上司と部下の関係はありません。むしろ、私たちは神の家族であり、主にある兄弟姉妹なのです。牧師であっても信徒であっても、まったく対等な関係です。各人が自分の意見や考えを自由に言うことができます。しかしながら、その自由には、責任も伴います。教会を建て上げ、神様の働きをなし、神様の栄光を現すものでなければなりません。教会のリーダーたちは、教会全体を見ながら、その信仰と平和と秩序が保たれるように努め励んでいる人々なのです。

   私が20代の頃は、キリスト教会において聖書的なリーダー像を正しくととらえていた教会のリーダーはあまりいなかったように思います。当時は、サーバントのようなリーダーよりも、かえって、スター性のあるワンマンな強いリーダーが好まれる傾向があったようにも思います。

   そして、次にペテロは言います。「みな互いに謙遜を身につけなさい。」長老も若い人も謙遜を身に着けるように導かれています。「謙遜」とは、自分を低くすることです。「謙遜」とは、他人を自分よりも優れていると思うことです。「謙遜」とは、自分にしてもらいたいと思うことを他人にもしてあげることにまで及ぶことです。ペテロは、「互いに」と言っています。「互いに」がポイントです。教会というところは、「互いに」ができるところなのです。聖書という同じ価値観に立って、神のことばに従いたいと言う気持ちがあるのですから、「互いに」ができるのです。教会は、謙遜を身に着けるための良き訓練の場所です。社会においても、多くの人々が互いに謙遜を身に着けることの大切さに気付くなら、もっと互いに優しくなれる社会を築くことができるでしょう。けれども、それは、至難の業です。実際には、人間関係に苦しみ、ストレスを感じている人が、何と多くいることでしょう。それが原因で、心療内科や精神科に通院している人の数は年々増加するばかりです。

   オープン・ドア・チャペルは、若い人も長老のような人も、みな互いに謙遜を身に着けることのできる場にしていきたいと思います。「互いに」がポイントです。あくまでも訓練の場ですから、完全を求めたらうまくいかなくなります。他人に向かって完全を期待するのではなく、まず自分がやることです。そうするならば、「互いに」が成り立っていくのです。

   次に、「神は高ぶる者に敵対する」とあります。神様の大嫌いなことの一つは、高ぶることです。クリスチャンであっても高ぶることがあります。私も過去に何度も高ぶりました。高ぶるほどのものは持っていないはずなのに、いったいどうして高ぶったのでしょう。神様は私たちのことを神の子どもと見なしてくださっています。その見方は、何があっても変わることがありません。私たちが高ぶったからと言って、神様の私たちへの愛は変わらないのです。しかし、神様は、高ぶることが大嫌いです。そして、へりくだることは大好きです。ですから、へりくだる者になりたいと思います。へりくだる者に恵みを与えられると書かれてあります。

■6節 私たちは、高ぶりかへりくだりかの分かれ道に立つことがあります。そこで、私たちは、聖書のことばを思い起こすべきです。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。」他人から、「あなたは高ぶっている」と言われたら腹が立つでしょう。でも、イエス様に言われたらどうでしょうか。「あっそうか、自分は高ぶっているのか」と気づかされて素直に受け入れるのではないでしょうか。イエス様の弟子たちもそうでした。彼らは、他の弟子たちの言動に腹を立てては喧嘩をしていたようです。けれども、他の弟子から言われると腹が立つことでも、イエス様なら許せるみたいなところがあったのだと思います。

   もしも、高ぶりを示されたのなら、私たちは、神様の手の下にへりくだった方がよいでしょう。神様の手は力強いとあります。英語では、「mighty hand」です。神様の手は何でもできる手、不可能なことがない手、どんなに強い敵からも守ってくれる手、その手の下に来るように私たちは導かれています。そのところで、私たちは少しずつ変えられていきます。そして、ちょうど良い時に神様は私たちを高くしてくださると約束してくださっています。自分をどんなに低くしなければいけないとしても、それは、いつまでも続くことではありません。ちょうど良い時にその訓練は終わって、立つべきところに立たせてくださるのです。

■7節 「だからあなたがたの思い煩いを、いっさい神様にゆだねなさい。神があなたのことを心配してくださるからです」私たちは人間ですから、思い煩うなと言われても思い煩ってしまいます。でも、思い煩ってもできないことはできません。そんな時は、神様に頼るしかありません。神様は、私たちのことを気遣ってくださり、一番良いことを知っています。そして、必ず脱出の道を備えてくださっています。これは、聖書の約束です。

■今から3500年前に、モーセという人がいました。旧約聖書には、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であったと書かれています。彼は、40年をエジプトの王家で過ごし、40年を羊飼いとして過ごし、40年をイスラエルの民と共に荒野で過ごしました。彼が神様に呼び出されて神様の働きに従ったのは、80歳になった時です。それまで、モーセは、神様の働きに備えられるために、神の手の下で謙遜の訓練を受けていたと言ってよいでしょう。そして、ちょうど良い時に、神様に召されて、イスラエルの民をカナンの地に導くために用いられました。

   私たちも神様の力強い御手の下に来るように導かれています。そして、へりくだるときに、私たちは次のステップのために準備が始まります。そして、ちょうど良い時に何かが始まるのです。最後まで、その召しを全うできるように神の手が私たちを守ってくださいます。それを信じて行きたいと思います。