神の宝にふさわしく

2014年11月9日 主日礼拝 「神の宝にふさわしく」マラキ3:13~18佐々木俊一牧師

「あなたがたはわたしにかたくななことを言う。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。今、私たちは、高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。」と。

そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主のみ名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。「彼らはわたしのものとなる。万軍の主は仰せられる。わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」(マラキ3:13~17)

■新たな冷戦ということが言われ始めています。もちろん、これは、アメリカとロシアのことです。1990年以前は、アメリカとソビエトでした。また、EUがぐらつき始めています。EUに失望し、否定的な人々が増えています。それとともに、民族主義的な考え方(ナショナリズム)をする人が増えています。EUにはもっと強いリーダーが必要だと思っている人も多いのではないでしょうか。アメリカでは、中間選挙で民主党が共和党に大敗しました。オバマ大統領の演説には多くの人々が魅了されましたが、"Yes, we can!"のキャッチフレーズは実現には至りませんでした。世界においてはアメリカのリーダーシップが弱くなってきています。それによって、アジアでは中国の存在感が確実に大きくなってきています。歴史を見ると、一つの国がいつまでも力を保ち続けたことは一度もありません。アッシリア帝国、ペルシャ帝国、ギリシャ帝国、ローマ帝国、どの帝国も衰えて小さな国になってしまいました。国と国の力関係は流動的で、不安定で、変化します。イスラエルという小さな国も流動的で不安定な国家間の力関係の狭間で翻弄されてきました。

■旧約聖書の後ろの方にハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書というのがあります。このハガイ、ゼカリヤ、マラキの3人は、ユダ王国の民がバビロン捕囚から70年を経て彼らの故郷パレスチナに戻った後に、預言者として立てられた人々です。ハガイとゼカリヤは、ユダの民を励まし、信仰と勇気を与えて、中断されていた神殿再建工事を再開させました。イスラエルとユダの民がパレスチナを離れている間、その所には多くの外国人が住むようになりました。バビロン捕囚から帰還したユダの民が神殿を再建し始めると、移住してきた外国人は神殿再建を妨害しました。しかし、そのような中、神殿はついに再建されたのです。ところが、いったん神殿再建が成し遂げられると、人々の生活は落ち着いたのですが、今度は、人々の神への情熱が失せていきました。信仰は形式的なものに陥ってしまい、世の中のモラルは低下していきました。そこで、登場してきたのが、マラキという預言者です。

■マラキは旧約聖書に出てくる最後の預言者です。み使いガブリエルが祭司ザカリヤに現れて、バプテスマのヨハネの誕生について告げるその時まで、約400年の間、預言者をとおして神様のことばが語られることはありませんでした。この時代は、『Silent Years(沈黙の時代)』と言われています。しかし、この400年の間に、何もなかったわけではなくて、救い主、イエス・キリストがこの地上に来て、あがないのみわざを成すための準備がなされていたのです。

   それでは、「沈黙の時代」とは、どのような時代だったのでしょうか。バビロンに捕らえられていた多くのユダヤ人たちは、バビロン崩壊後、ペルシャの支配を受けました。ペルシャのクロス王は、ユダヤ人たちが自分たちの国があったパレスチナに戻ることを許可しました。それによって、彼らはエルサレムの城壁と神殿を再建することができました。ところが、それもつかの間、次は、アレキサンダー大王で有名なギリシャに支配されることになります。ギリシャが4つの国に分裂すると、次は、その中の二つの国、エジプトに支配され、その次にシリアに支配されました。シリアとの戦いの結果、独立を勝ち取ったのですが、そのあとすぐに、今度は、史上最強の帝国と言われるローマ帝国に支配されてしまいます。ダニエル書7章は、これら4つの帝国、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマについて預言された箇所であるという考え方がありますが、確かに関連性があるように思われます。

   預言者イザヤやエレミヤが語った、栄光に満ちた神の国、イスラエル王国の確立は実現しないまま、他国の支配の中で時は過ぎて行きました。このような状況の中で、キリスト・イエスがこの地上を歩まれた時のステージが整えられていったのです。イエス・キリストを、妬みから十字架につけたパリサイ人、律法学者、サドカイ人などの宗教家が、この時代に形成されました。民衆は、他国による圧政からの解放を切望し、自分たちを救ってくれる、自分たちの国を作ってくれる、救い主であり、王であるダビデの子孫を待望するようになりました。この彼らの抱く希望、救い主の来臨については、創世記からマラキ書に至るまで、旧約聖書の中心テーマです。そして、新約時代において、その預言はあるところまで成就します。まだ続きがあるのです。イエス・キリストが私たちの罪に代わって十字架で死んでくださり、別の言い方で、私たちを贖ってくださり(買い戻してくださり)、三日目によみがえられました。40日の間、弟子たちに現れて神のみ国のことを教えられました。それから、この地上に再び戻って来ることを約束して、エルサレムのオリーブ山から天に昇っていったことが、使徒の働き1章に書かれています。あれから、もう少しで2000年になろうとしています。救い主を待ち望んでいた、400年の沈黙の時代と救い主イェス・キリストが再び戻って来ることを約束してエルサレムのオリーブ山から天に昇って行かれた時から現在に至る2000年の時代には共通点があるように思います。私たちは、今日の聖書箇所から、今の時代でも適用できる私たちの信仰の姿勢について学ぶことができると思います。

■13節~15節 当時の世の中の価値観が、聖書の価値観からずれていく傾向にあったのではないかと思われます。高ぶる者がもてはやされ、悪い者が繁栄し、幸せに見える、そんな世の中であったのではないかと思います。正しい者が正当に評価されることなく、かえって、軽視されることが多かったのでしょう。この地上の繁栄や快楽を第一に追求し、物質主義的な価値観は、現在と共通するところがあります。

   そんな世の中で、こんな声が聞こえてきそうです。たとえば、「こんなに長い間待っても、救い主イエス・キリストは来ないじゃないか。イエス・キリストが再びやって来るなんていう話は、人がうまく考えた作り話にすぎないよ。」「こんなこと信じているよりも、飲んで食べて、自分の好きなことをやっている方がずっといいよ。人生は一度限り、楽しくやらなきゃ損だよ。」「礼拝に行くために時間を裂いたり、献金にお金を費やしたりするのは意味の無いことだ。そんなことをやっても何もいいことなんてないさ。時間もお金も自分のために使うのが一番だよ。」世の中には、実際にそう考えている人々がたくさんいます。新約聖書には、そのような考え方をする人々に惑わされないように注意を促す箇所があります。イエス・キリストへの信仰を疑わせようとする声が、昔も今も変わることなく、外側からも、内側からも聞こえて来るのです。

■16節~17節 しかし、そのような環境の中にあっても、神を敬い、聖書の価値観から離れない人々がいました。「そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。」「主を恐れる者たち」とは、「主をこわがる者たち」ということではありません。「主を敬う者たち、主を尊ぶ者たち、主を愛する者たち」のことです。聖書の価値観を否定する世の中にあっても、神を敬い、聖書の価値観から離れない人々がいたのです。今の時代も同じです。情報や映像に満ち溢れているこのような時代にあっては、クリスチャン同士が共に集まり互いに語り合うということが、健全な信仰を保つためにとても重要なことだと思います。主を敬う者たちは互いに何を語り合ったのでしょうか。具体的には何も書かれていません。たぶん、神様への賛美、神様への感謝、信仰のことば、聖書の約束、互いに励まし、慰めることば、または、神様へのSOSかもしれません。神様は、神様を敬う者たちの声に耳を傾けられました。神を否定し、聖書の価値観を否定する声が大きく響く中にあって、主を敬う者たちの声がどんなに小さく聞こえたとしても、神様は、それをちゃんと聞いていてくださっています。 

■ハガイ1:1~9 マラキ3章は、神殿が再建されて人々の生活も落ち着いてきたときのことです。生活が豊かになるにしたがって、神への情熱は冷めて行きました。ここの箇所は、それとは違って、バビロン捕囚から戻って来たユダの民が、いつまでたっても神殿再建に取りかからないで、自分たちの生活のことばかりに始終していた中で語られたことばです。ユダの民は自分の生活の事ばかりに心を奪われ、神様に礼拝をささげることも、神様に祈ることも忘れていたのではないでしょうか。ですから、彼らには、本当の満足がありません。心は渇き、心は貧しかったのです。神様はそんな彼らに神殿を建てるように励まします。それは、彼らが再び神に仕えるようになるためです。神に礼拝をささげ、神に祈るように導くためです。そうすることによって、神様はご自身の栄光を現そうと言われました。彼らはもっと多くの祝福を受けることができたのに、わずかしか受けませんでした。それはなぜか。彼らがみな、自分の家のために忙しくしていて神様に仕えることをおろそかにしていたからです。

   この前、妻に起こった出来事で、私たちは襟が正される思いだったという証しをしました。このことを通して、私が思わされたことの一つとして、妻と一緒に祈るということでした。けれども、また、忙しいと感じているせいか、一緒に祈っていない自分に気が付きました。嵐が去ってしまうと、その嵐をとおして学んだことを忘れてしまいます。

   5節と7節に、「あなたがたの現状をよく考えよ。」とあります。新共同訳では、「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。」です。ある英語の聖書では、「あなたがたの歩む道を注意深く考えなさい。」です。私たちはもしかすると、ここに書かれているユダの民に似ているところはないでしょうか。今一度自分の歩みに心を留めることは意味のあることではないかと思います。もしも改めるように導かれていることがあるならば、そのところを改めることによって、神様ご自身の栄光を豊かに現してくださいます。

   来年、私たちは25周年記念行事を計画しています。オープン・ドア・チャペルが始まったのは、歴史的な出来事である、ベルリンの壁が崩壊してから2ヵ月だけ後のことです。1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊しました。まさに、今日、11月9日の出来事だったのです。そして、オープン・ドア・チャペルの礼拝が始まったのは、1990年1月21日です。ほぼ同じ時期にドアが開かれました。この25周年記念行事には、ホエリー宣教師夫妻と富田牧師夫妻が来てくださいます。私はその事を心から楽しみにしています。なぜならば、彼らには、神様への熱い情熱があるからです。彼らに来ていただくことによって、私たちの神様への情熱が再び燃え上がるからです。そして、それは、私たちだけではなくて、オープン・ドア・チャペルからしばらく遠ざかっている兄弟姉妹にも神様への情熱が再び燃え上がってほしいからです。私はそこに神様の大きな御心を感じています。そのために、みなさん、お祈りください。これは、神の宮(神殿)を建て上げるための働きです。神様はそのことを喜んでくださり、祝福してくださり、神様の栄光を現してくださると信じます。

「彼らは、わたしのものとなる。万軍の主は仰せられる。わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える者をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」

   主を敬う者たちは、『神の宝』なのであると、預言者マラキをとおして語られています。神様は、神の宝、主を敬う者たちを、最後の最後まで尽きることのないあわれみをもって守り通してくださるお方です。そのことを覚えつつ、私たちは神の宝にふさわしく、私たちの歩み方を今一度よく考えて、歩んで行きたいと思います。