金持ちと貧乏人

2014810日主日礼拝「金持ちと貧乏人」ルカ16:14~22 佐々木俊一牧師

    国連大学の調査によると、世界の資産の40%は、1%の人々が独占しているということです。現在、世界の人口は約70億人ですから、1%というと、7000万人です。そして、2%の人々が50%の資産を独占しているということです。2%は、1億4000万人です。つまり、3%の人々、2億1000万人の人々が世界の資産の90%を独占していることになります。残りの10%を97%の人々、67億9000万人の人々が分け合っているのです。私たちはどこに属しているでしょうか。

   また、貧困問題に取り組む国際NGO「オックスファム」の最近の調査によると、世界人口の1%、7000万人が世界の富の半分を独占し、世界の最富裕層85人の資産総額は、世界人口の半分、所得下位者35億人の総資産額に相当するという調査結果を発表しました。この結果からわかるように、世界の富はあまりにも不平等に配分されているというのが現実です。

   今日は、ルカの福音書16章からイエス様のたとえ話、「ある金持ちと貧乏人ラザロ」のところからお話をしたいと思います。

14節 「金の好きなパリサイ人たち」と書かれています。はっきり言われていますね。パリサイ人とはユダヤ人の宗教指導者であり、人に教え、人を導く立場にある人々です。ですから、お金には無欲な人々というイメージがありますが、お金には目がないパリサイ人も少なくなかったようです。もちろん、神のことばに真面目に取り組む人々もいました。たとえば、ヨハネの福音書3章に出てくるパリサイ人に、ニコデモという人がいます。彼には、真理に対する真剣な態度を見ることができます。彼は後に、イエス・キリストを信じました。

    私たちはどうでしょうか。お金は好きでしょうか。私自身について言うなら、嫌いではありません。好きか嫌いか、どっち?と聞かれたら、正直言って好きだと答えるでしょう。けれども、神様とお金のどっちが好き?と聞かれたら、どう答えますか。もちろん、神様と答えるでしょう。お金は多すぎず、少なすぎず、必要な分だけあればよいと思います。箴言30:8に私の好きなことばがあります。「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とは誰だ。』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」私がもしも毎日何不自由のない贅沢な生活に満足してしまうようなことがあるならば、私には神様が必要だと思わなくなってしまうかもしれません。また、あまりにも貧しくて、食べ物や着る物や住むところが手に入れることが困難になるならば、私は家族を養うために、また、自分が生きるために、畑からカボチャやトウモロコシを盗んでしまうかもしれません。そして、警察に捕まって、「お前は以前牧師だったそうじゃないか。それなのにこんなことをして恥ずかしくないのか。」と言われてしまったら、神様の御名を汚してしまうことになります。ですから、私は個人的なことについても具体的に祈っています。たとえば、60歳を過ぎた後も、妻と私が住むところと着る物と食べ物が十分に与えられますように、そして、年に一度くらいは一緒に旅行に行けるくらいの収入が与えられますように、と祈っています。これくらいの祈りは許されるでしょう。

15節 イエス様には、人の心の内側を知る力がありましたから、イエス様を嘲笑った金の大好きなパリサイ人たちの心の内側もよく分かっていました。彼らには一つの大きな問題があります。それは、自分は正しい者であるという思い込みです。ゆえに、神様の助けも救いも必要ありません。すでに、神様の前に十分に正しい者であるとの認識でしたから、行ないによって義となる自信に満ちあふれていたのです。実際に、彼らは人前で良いことをしていました。祈りもうまいですし、献金もいっぱいささげていました。身なりもよいですし、社会的地位も、財産も、名誉もあります。これほど立派な人が神様に認められないわけがありません。けれども、神様の目には、彼らの内側と外側のギャップが明らかでした。そして、イエス様は言うのです。「人間の前であがめられる者は、神の前で憎まれ、嫌われます。」ほめることも、ほめられることも、それ自体は良くもあり悪くもありません。的のはずれた思い違いをしてしまうことに問題があるのです。ほめられることによって、自分が他の人より特別な存在であって、何か偉くなったような錯覚にとらわれることが問題です。それは高ぶりを生じさせます。

    日曜8時から軍師官兵衛を見ています。前回、荒木村重の言ったことばの中に、考えさせられることがありました。「天下には魔物が住んでいる」ということばでした。人が天下人になると、人が変わるのです。良く変わればよいのですが、だいたい、悪く変わります。織田信長も豊臣秀吉もそうでした。人が権力を手中におさめ、トップに立つと、自分が何か特別で偉くなったような気がするのでしょう。高慢になって、自分が神様にでもなったような思い違いをしてしまうのです。イエス様は言いました。「偉くなりたい者は、人に仕える者になりなさい。」と。トップに立つ者ほど、へりくだる思いが必要だと、イエス様は言うのです。イスラエルの初代の王、サウルは、背が高くハンサムでした。けれども、彼は、気が小さく、引っ込み思案でした。そのサウルが王になって初めのうちはとてもよい王様でした。しかし、後になると変わりました。高慢になりました。結局、サウルの家は滅んでしまいました。次の王である、ダビデもまた、高慢になることがありました。そして、大きな罪を犯してしまいました。でも、彼の場合、自分の罪に気づかされた時に、神と人の前にへりくだって悔い改めることを選びました。その結果、ダビデの家は滅びることはありませんでした。ダビデの家から救い主が出るという神の約束もまた変わることはありませんでした。神様の恵みを受け続けるためには、私たちはへりくだりと悔い改めることが大切です。

16節 旧約時代は律法と預言者の時代と言うことができるでしょう。神は、イスラエルの人々に律法を守るように命じました。そして、律法を守るならば、あなた方を祝福しようと約束しました。しかし、律法を守り続けることは彼らにとって至難の業でした。多くの人々がそれぞれの行ないによって裁かれました。しかし、そんな中で面白いことに、律法を完全に守ったわけではないのに、罪赦され、祝福を受け、神のみ国に行ったと思われる人々がいるのです。へブル書11章を参考にしていただきたいのですが、ノアやアブラハムが神のみ国に行くのはわかります。でも、やり方の汚いヤコブ、遊女ラハブ、大酒飲みで女好きのサムソン、人殺しのダビデ、彼らが神のみ国に行くのは律法からするとおかしいのではないかとクレームがつきそうです。面白い聖書箇所があります。エゼキエル33:11~16です。旧約において神のみ国に入れられた人々は、行ないによって神のみ国に入れられたのではなく、その信仰によって入れられた人々なのです。その意味では今と同じです。イエス・キリストを信じる信仰ではありませんが、神を信じる信仰によって、神の判断によってよしとされた人々が神のみ国に入れられました。彼らに共通することは、神を信じて、悔い改めたということです。新約においても、旧約においても、行ないによって神のみ国に入った人は誰もいません。すべて信仰によってです。

   律法と預言者によって救い主が来られることが語り伝えられてきました。そして、ついに、救い主はこの地上に来られました。それが、私たちが知っている、イエス・キリストです。本物の救いがこの世にやってきて以来、神の国の福音は宣べ伝えられて、それまでとは比べられないほどにたくさんの人々に神のみ国への可能性が広がったのです。それまで考えられないような人々までその救いを受けるためにやって来ました。当時、罪人のレッテルを貼られていた、取税人や遊女たち、汚れた者として社会の隅に追いやられていた多くの人々がイエス・キリストを救い主として受け入れ始めました。それを見ていたパリサイ人と呼ばれる聖書を良く知っているはずの宗教指導者たちが、その動きを阻止しようとしたのです。

17節・18節 神様にとってはすべてをリセットする方が簡単なのです。つまり、天地のすべてを滅ぼして、また初めから始める方がずっと簡単なのです。しかし、神様はそうはしませんでした。神様は難しい方、律法の一画が落ちる方を選ばれました。神様は罪人を救うためにひとり子なるイエス・キリストを地上に送りすべての人の罪を負って十字架にかかって死ぬことをよしとされました。それにより救いは完成しました。イエス・キリストを救い主として信じる者はだれでも、その信仰によって義とされ、神のみ国に入ることができるのです。この神の計画により律法の一画は落ちたかに見えましたが、実は、そうではありません。かえって、それによって律法を確立することになったのです。

19節~21節 文脈の流れから言ってこのたとえ話は、イエス様を嘲笑ったお金の大好きなパリサイ人たちに向けて語られたたとえ話でしょう。ある金持ちとは、そこにいたパリサイ人たちのことであり、紫の衣や細布を着ることのできる人とは、金持ちで地位があり贅沢な生活をしている人々の典型的な姿です。そんな金持ちの家の門の前には、ラザロという貧乏人(ホームレス・乞食)が横たわっていました。彼は全身が皮膚病で炎症を起こしていました。体も弱っていて野良犬がやって来ては赤くただれた皮膚をなめまわしました。しかし彼にはそれを払いのける力さえなかったように思えます。彼が金持ちの門の前にいたのには理由がありました。残飯を期待していたのです。ラザロは金持ちの家から出た残飯を食べて生きていたのです。

22節 そして、時は経って、貧乏人ラザロが死んだとあります。彼のために葬儀がなされたのかどうかわかりません。たぶん、葬儀はなく、きちんと埋葬されなかったかもしれません。けれども、み使いたちによって、アブラハムのいるところに連れて行かれたとあります。アブラハムのいるところとは、神のみ国と言ってもよいでしょう。その後、金持ちも死にました。きっと彼のためには立派な葬儀が行なわれたことでしょう。きちんと埋葬もされたことでしょう。

   ここでわかることがあります。お金があっても無くても、結局、人は死んでしまうのだということです。しかし、お金がなくても、神のみ国に入ることができるのだということです。            

23節 ところで、あの金持ちは死んでどうなったでしょうか。「その金持ちはハデスで苦しみながら目を上げると」と書かれています。ハデスとは、何のことでしょうか。どうやら、この金持ちはハデス、つまり、地獄に行ってしまったようです。

    貧乏人のラザロは神のみ国で、金持ちはハデスに行きました。どういう理由でこのような結末になってしまったのでしょうか。彼らがまだ生きていた時には、どちらかというと、金持ちが良い評価を受け、ラザロが悪い評価を受けていました。当時の律法の常識的理解によるならば、金持ちは、神の祝福ゆえに、富も地位も名誉も与えられたのであり、ラザロが貧乏で皮膚病だったのは、彼の罪に対する神の裁きなのだと考えられたのだと思います。しかし、神の判定はまったくの逆でした。ラザロは神のあわれみを受け、金持ちは神の裁きを受けました。イエス様は律法についてとても大切なことを言っています。マタイ23:23にこのように書かれています。「偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、10分の一の献金を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち、正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他の方もおろそかにしてはいけません。」金持ちは人の目には正しい者として見られましたが、しかし、神の目には、正義もあわれみも誠実も欠けているとの判定でした。金持ちは貧乏人ラザロのことを知っていました。けれども、彼は、ラザロのことについてはほとんど無視でした。無関心だったのです。25節にこうあります。「子よ。思い出してみなさい。お前は生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間悪い物を受けていました。しかし、今、ここで、彼はなぐさめられ、お前は苦しみ悶えています。」

   この地上には不条理があり、不平等があります。しかし、それについても、神様のあわれみと慰めがあります。ラザロのように、この地上において良い物を受けられなかった人のためには、きっと、神のみ国においてもっと良い物備えられていると信じます。

   律法によって測られるのなら、私たちの受ける報いもあの金持ちのようになってしまう恐れがあるのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストがこの地上に来て、神の国の福音を宣べ伝えて以来、行ないによるのではなく、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によって神のみ国に行く道が開かれたのです。これについては、金持ちも貧乏人も区別はありません。チャンスはすべての人に平等に与えられているのです。

   今日は召天者記念礼拝です。オープン・ドア・チャペルにおいては、5名の兄弟姉妹が天のみ国に召されています。お一人おひとりがそれぞれの人生の中で悩みと苦しみと悲しみがありました。しかし、今は神と共にあって哀れみと慰めを受けているのだと信じます。