御霊によって歩む

2014.8.24主日礼拝「御霊によって歩む」<ガラテヤ5:16-26>佐々木俊一牧師
■今日は、ガラテヤ人への手紙からお話をしたいと思います。この手紙は、ガラテヤ地方の諸教会に宛てて書かれた手紙です。ガラテヤ地方は、トルコ中央部、首都のアンカラを含めた南北に細長い一帯です。ガラテヤ人への手紙は6章までありますが、2月に5章15節までお話をしたきり、その後、ガラテヤ人への手紙からしばらく離れていました。今日は、5章16節~26節の中から、特に、「御霊によって歩む」ということについてともに考えてみたいと思います。
    「御霊」は、神道や仏教でも用いる言葉だと思います。けれども、意味が違います。聖書の中の「御霊」は、「聖霊」とも言われています。英語では、「Holy Spirit」とか、大文字で書いて単に「Spirit」と呼ばれています。ギリシャ語では、「プニューマ」です。ついでに、ただの「霊」は、英語では小文字で「spirit」、ギリシャ語では「プシュケー」です。霊は霊でも、呼び方が異なります。
        ガラテヤ5章に、「御霊によって歩む」について、他の言い方を見つけることができます。「御霊によって導かれる」とか、「御霊によって生きる」です。この前の金曜日に、聖書の学びがありました。ローマ人への手紙8章1節~17節を読んで、ともに考え、学び合うことができました。その時も似たような言い方がありました。そこでは、「御霊に従って歩む」となっていました。「御霊によって歩む」、「御霊によって導かれる」、「御霊によって生きる」、「御霊に従って歩む」、これらはみな、同じことを意味しているのだと思います。
        ローマ8:5には、このように書かれています。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」肉に従って歩むとは、肉的なことをもっぱら考えて生きることです。その人は、罪の性質が欲することにいつも心が向いています。ガラテヤ5:19~21に罪のリストが書かれています。このようなことがらにあまりにも不用心で、簡単に引き寄せられてしまうのです。それに対し、御霊に従って歩むとは、御霊に属する事柄について熱心に思って生きることです。御霊に属する事柄とは何でしょう。聖書の内容に関連したことでしょうか。神様のこと、イエス様のこと、聖霊のこと、救いのこと、赦しや愛のこと、天国のこと、永遠の命のこと、聖書に出てくる人物のこと、いろいろあるでしょう。その人は、神に祈り、賛美と感謝をささげ、礼拝をささげます。時には、罪を告白し、悔い改めて再び神に従って歩き出すこともあるでしょう。このように、神様との交わりを保ちながら生きるのです。
■16節~18節 御霊によって歩むならば、肉の欲望を満足させるようなことはないと言っています。これは御霊によって歩むならば、罪を犯すことはないということなのでしょうか。そうではありません。先ほど、御霊に従って歩む者は、御霊に属する事柄について熱心に思って、神に祈り、賛美と感謝をささげ、礼拝をささげ、しかし、時には、罪を告白し、悔い改めて再度前に向かって歩き出すこともあるのだと言いました。このように、神様との交わりを保ちながら生きるならば、私たちは肉の欲望を満足させるような生き方を続けることはないということなのです。なぜならば、私たちは、平気で罪を犯すことができないからです。というのも、イエス・キリストを信じる者のうちには、御霊が住んでいるからです。2節に、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊の願うことは肉に逆らうからですとあります。そして、この二つは対立、つまり、戦っているのです。そのために、自分がしたいと思うことをすることができないのです。この自分というのはどっちの自分だと思いますか。古い自分ですか、それとも、新しい自分ですか。私は、新しい自分だと思います。なぜならば、古い自分はすでに死んでしまっているからです。
        パウロは、ローマ人への手紙7: 15節~23節のところで、この箇所と同じようなことを言っています。そのところを要約すると、こうなります。自分としては神様の御心に従い、良きことを行ないたいと願っているにもかかわらず、その願いとは反対に、したくない悪を行なっている自分を見出すことがあります。パウロの理解によるならば、その場合、それを行なっているのは、もはや自分ではなく、自分のうちに住む罪であるということです。ある罪の行為に誘惑されたときに、内側から、「それは、神様が喜ばないことだよ。それに、そんなことをしたら、多くの人が傷つくし、あなたが今まで築き上げてきたものが壊れてしまうことになるよ。だから、やめなさい。」というささやきが聞こえてきたらあなたはどうしますか。心の中では葛藤が始まります。「これは神様が喜ばれないことだし、多くの人を悲しませてしまうことになるだろう。大切なものを失うことになるかもしれない。でも、誰にも知られなければ問題はない。このままやってしまおうか、それとも、やはり、やるのをやめようか、どうしようか。」幸いにも、その声に従って、やるのをとどまるのです。でも、いつもこのようにうまくいくわけではありません。失敗することもあります。その時は大きな痛手を被ってしまいます。失敗したときの惨めな気持ちを味わうことになります。しかし、それでも、御霊によって導かれるなら、私たちには回復するチャンスが与えられているのです。律法の下にではなく、恵みの下にあるからです。罪を告白し、悔い改めて、再び、前に向かって歩き出すことができるのです。(だから、どんどん罪を犯していいですよということではありません。)
■私自身のことを振り返ると、若い頃というのは、非常に内面の戦いと葛藤の多い時期だったと思います。心の状態を比べるならば、今の方がずっと安定しています。平安もありますし、喜びもあります。うちに住まわれる御霊の働きによるものだと思います。私が特に重要と思うみことばは、Ⅰヨハネ1:7と9です。互いの間の交わりを保つこと、それは、赦しと愛がなければできません。そして、罪の告白と悔い改めです。これらのことを通して、御霊は豊かに働かれ、ガラテヤ5:22,23にあるような御霊の実を多少なりとも結ばせてくれるのだと思います。
■御霊によって歩むとは、御霊に属する事柄について熱心に思って生きることです。その人は、神に祈り、賛美と感謝をささげ、礼拝をささげます。時には、罪を犯してしまい、悔い改めて再度前に向かって歩き出すこともありますが、神様との交わりを保ちながら生きるのです。このような生き方は、今の時代においては、非常に難しいことと言えるかもしれません。なぜならば、あまりにも誘惑の多い時代だからです。目からも耳からも多くの情報が飛び込んでくる時代だからです。私たちの思いはそのような情報でいっぱいになってしまいます。これらの情報はとても刺激的で、快楽的で、中毒的なところがあるのではないでしょうか。これらの情報で私たちの思いがいっぱいになるならば、わたしたちは、これらの情報からもう二度と離れようと思わなくなってしまうかもしれません。さらに深くその中に入り込んでしまうならば、神様を神様と思わない誘惑が待ち構えているかもしれません。社会全体が、これからもっと不健全になっていくことははっきりしています。だからこそ、御霊によって歩むことが必要な時代と言えるのです。私たちの思いを守るために、もっと、神様のことやイエス様のことを覚えましょう。父なる神、子なるキリスト、聖霊との交わりを保つために、礼拝をささげること、祈りをささげること、聖書を読むことを大切にしましょう。私たちの思いを何が支配しているのか、御霊に属する事柄なのか、それとも、肉に属する事柄なのか、それは、私たちの将来に大きな影響を与えます。それは、私たちの行動に影響を与え、私たちの習慣や人格を作り上げていくものです。今の時代に生きる子供たちにとっては非常に深刻な状態だと思います。神様のこと、イエス様のこと、聖霊のこと、救いのことについて正しく伝える必要があります。また、御霊によって歩むことを、大人たちが少しでも子供たちに良き模範を示すことができたらと思います。
■24節~25節 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉をさまざまの情欲や欲望とともに十字架に着けてしまったのです。つまり、自分の肉体は死んだということです。みなさん、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた時に、みなさんの体がすべて水の中に沈められたことを覚えているでしょうか。それによって、古い自分の死を体験しているのです。イエス様と共に十字架に着けられて古い自分は死んだのです。しかし、水の中から上がるとき、イエス様が復活したように、新しい自分として生き返るのです。
        25節に、もしも、私たちが御霊によって生きるならとあります。御霊によって生きるならとはどういうことでしょうか。イエス・キリストを信じた者には、御霊がうちに住まわれると聖書に書かれています。それとともに、死んだ状態の霊が生きたものとなって神様との交わりが回復されるのです。ローマ8:16を見てください。「私たちが神の子供であることは御霊ご自身が私たちの霊と共に、証してくださいます。」とあります。私たちは御霊によって生きている者です。もし、そうであるなら、御霊に導かれて進もうではありませんかとパウロは言っています。神様との交わりを大切にして、神様との交わりを保ちつつ歩みましょう。御霊によって歩みましょう。