生かされている命

2014年10月26日主日礼拝「生かされている命」<Ⅱ列王記20:1~11>佐々木俊一牧師

■ヒゼキヤという王様が出てきます。ソロモンの後、イスラエルは、ユダ王国(南王国)とイスラエル王国(北王国)に分裂しました。ヒゼキヤは、ユダ王国の王様です。ユダ王国には、4人の良い王様がいました。何が良いのかというと、真の神様に従順で、忠実であったということです。他国の神々に心を向けず、真の神様を信じ、従い、歩みました。律法を尊び、正義をもって国を治めました。信仰から離れていたユダ王国の人々を、再び信仰に導きました。さらには、アッシリアなどの強国からの攻撃に備えるために、貯水池や地下水道などの整備も行ないました。そんな王様の名前、ヒゼキヤは、「主はわが力」という意味です。その名前のとおりに、ヒゼキヤの人生は神様の力が表されていた人生だったと言えるでしょう。

■1節 ヒゼキヤは病気になって死にかかっていたとあります。何の病気なのかはわかりません。とにかく、生死にかかわる病気を患ってしまったのです。ヒゼキヤは25歳のときに、父アハズの後、ユダ王国の王になりました。アハズは、あまり良い王様ではありませんでした。母親の信仰が良かったのかもしれません。父は反面教師、母は良き模範だったのかもしれません。それから、29年間、54歳で亡くなるまでユダの王様でした。病がいやされてから15年間生かされたということは、ヒゼキヤが病になったのは、39歳のときということになります。このときの預言者は、イザヤでした。イザヤが神様からことばを預かって、ヒゼキヤのところにやって来ました。そして、言いました。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」何ときびしいことばでしょうか。イザヤが突然やって来て、死の宣告を受けてしまったのです。今まで、ユダ王国のために一生懸命に頑張ってきたのはいったい何だったのだろうと、ヒゼキヤはがっかりしたかもしれません。できることなら夢であってほしい、でも、現実の出来事なのです。

■2節 「あなたは死ぬ。直らない。だから、家を整理しなさい。」と言われたヒゼキヤはどうしたでしょうか。ヒゼキヤは、顔を壁に向けて、主に祈って、言ったとあります。絶望的な状況の中で、神に祈りました。多くの人は窮地に立たされると、祈る人になります。普段祈らない人も祈る人になるようです。ヒゼキヤは神様を信じていました。ですから、いつも祈っていました。この時も祈りました。神様に自分の気持ちを訴えたのです。

■3節 ヒゼキヤは神様に何と言ったのでしょうか。「ああ、主よ。どうか、思い出してください。私がまことをつくし、まったき心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」ヒゼキヤが自分で言うように、彼は、堕落して乱れていたユダの国を建て直しました。そして、信仰を回復させました。また、周囲の強国の攻撃からエルサレムの民を守るために、地下水道の整備をして、水を確保しました。エルサレムにあるシロアムの池とギホンの泉を地下水道でつないだ跡が現在も残されています。ヒゼキヤはユダの王様の中でも、数少ない、良い王様の一人でした。そんな王様が死の宣告を受けて大声で泣いていたのです。

■4節、5節 ヒゼキヤ王に対し、神様からの応答がありました。それは、どのようなものだったのでしょうか。「わたしはあなたの祈りを聞いた。」と神様は言われました。神様はヒゼキヤの叫びを聞いておられたのです。ヒゼキヤが神様のために心を尽くして仕えていたことは、神様によって知られていました。ヒゼキヤの悲しみとその涙は、神様によって見られていました。そして、神様は言われます。「わたしはあなたをいやす。」と。やはり、神様はあわれみ深く、情け深いお方です。このような神様の態度は、ヒゼキヤに対してだけではありません。私たちに対しても同じなのです。神様は、私たちの苦しみも悲しみも理解してくださるお方です。私たちの祈り、私たちの叫び、私たちの涙をわかってくださるお方なのです。「三日目にあなたは主の宮に上る」とあります。これは、元気になって、再び主に仕えることができるようになるということです。

■6節 神様は、ヒゼキヤに言いました。「あなたの寿命にあと15年加えよう。アッシリアの王の手からあなたとエルサレムの町を救い出そう。」と。ところで、みなさん、ここで変だなあと思われることはありませんか。アッシリアの王によって攻められ、そして、圧倒的な勝利を見た出来事は、20章の前、18章と19章に書かれています。アッシリアに攻められた時とヒゼキヤが病気になった時の順序が逆になって書かれている可能性があります。アッシリアが攻め上って来たのは、ヒゼキヤが病気になる前ではなくて、病気になっていやされた後のように思われます。ヒゼキヤの寿命に加えられた15年の間に、アッシリアはユダ王国を攻めて来たのです。しかし、彼の病のいやしは彼の信仰を強めたに違いありません。彼は、「あなたとエルサレムの町をアッシリアの手から守る」と言った神様のことばをしっかりと握っていたことと思います。神様の約束は必ず成し遂げられるのだと信じることができたヒゼキヤは、どんなにアッシリアに脅されても、最後まであきらめないで、神様に信頼して従うことができたのだと思います。

■7節 イザヤは、干しイチジクを一塊持って来るように指示します。そして、それをヒゼキヤのからだにできていた腫物に当てます。すると、直ったとあります。イチジクの成分が腫物に効果があったのでしょうか。はっきりしたことはわかりません。時として、神様は面白い方法を用います。イエス様が土と唾を混ぜて泥を作り、その泥を盲人の目に塗って、シロアムの池の水で洗わせると、盲人の目がいやされたという記事があります。少し似ていませんか。腫物が直ったヒゼキヤはイザヤに言いました。「神様が私をいやしてくださり、3日目に主の宮に上れるしるしは何か。」と。ヒゼキヤは自分がいやされることについて、もっと、確信がほしいと思いました。イザヤは言いました。「神は約束されたことを成就される。でも、もっと、しるしが必要ならば与えよう。影が10度進むか、10度戻るか。これがあなたへのしるしだ。」と。ヒゼキヤは影が10度進むよりも、10度戻る方が難しいと考えて、難しい方を求めました。イザヤが祈ると、日時計におりた日時計の影が10度あとに戻されたとあります。地球の自転が、逆戻りした言うことになるのでしょうか。こうして、ヒゼキヤは病のいやしを確信することができました。

  神様はヒゼキヤの病をいやし、ヒゼキヤの寿命に15年を加えました。神様にとって、病をいやすことも、生きる年数を加えることも、難しいことではないようです。命は、神様の御手の中にあります。私たちは、神様によって生かされている存在なのです。私たち人間が、たとえ、自分の健康のために何かできることがあったとしても、自分の力で生きているのではありません。神様によって生かされているのです。

■妻が健康診断で引っかかってしまいました。両方の肺に影があるということで、精密検査をするように言われました。10月15日に精密検査を受けました。CTを撮りました。その結果、左の肺の下部に2か所小さな影がありました。腫瘍の疑いがあるということで、腫瘍マーカーの検査を受けました。12年半前に乳がんの手術をある大きな病院で受けました。その時の肺のCT 画像を取り寄せることになりました。以前のと今回のを見比べて、以前にも同じところに影があれば問題はありませんが、なければ腫瘍の可能性が大きいということなのだと理解しました。しかしながら、もしも、以前のものに同じ影があれば、12年半前にすでに問題になっているはずなので、以前のものにも同じところに影があるとは考えにくいことでした。腫瘍である可能性が非常に高いと私たちは考えました。もしも腫瘍であれば、単なる肺がんではなく、遠隔転移の乳がんということになることがネットに書かれていました。遠隔転移の場合は、末期になります。私たちは、この出来事が夢であってほしいと願いました。この日から私たちは、毎晩、一緒に祈ることにしました。祈りつつ、これからどうしたらよいかを話し合いました。遠隔転移だとしたら、抗がん剤治療や手術を受けてもただ体力を消耗するだけでほとんど効果はないのではないかと考えました。ですから、それは受けないと妻は決めました。一緒に祈る中で平安が与えられ、意外と冷静に考えることができました。そして、22日がやってきました。余命宣告を受けることもあり得ることを覚悟して、医者のところに二人で行きました。まず医者から言われたことは、以前のCT画像はすでに廃棄されたということでした。次に言われたことは、腫瘍マーカーは陰性だったということです。それにより、医者は、左の肺の2つの影については今のところそんなに心配しなくてもよいのではないかと判断したようです。それでは、いったいそれは何かというと、はっきりはわからないそうです。リンパ節かもしれないということでした。とりあえず、経過観察ということになり、主に感謝しました。

  私たち夫婦は一緒に祈る中で、本当に自分たちは神様によって生かされている存在なのだということを知らされました。妻はつらい検査や手術や抗がん剤治療は受けないで、神様が生かしてくれる分だけ生きようと決めていました。また、私たちは、そのほかにもいくつかのことを思わされました。生きる態度、信仰の態度について、襟を正される思いがしました。私たちは、感謝が足りない者であることを痛感しました。命に限りがあるということを切実に感じさせられると、毎日当たり前のようにあることが、とてもいとおしく、感謝なことであることに気付かされたのです。それがなくなると、とても悲しくて、寂しく感じます。何か事が起こるごとに心に生じるいらいらや文句がとてもぜいたくなことのように思いました。命があるのなら、それくらいどうってことはないのです。また、何かを失いかけると、それが自分にとって、とても大切なものであることに気付かされます。ですから、夫婦は、お互いにもっと大切に扱わないといけないと思いました。いつまでもあると思うから、扱いが雑になってしまいます。もっと大切にしましょう。

   私たちの命は神様の御手の中にあります。私たちは、自分で生きているのではなくて、神様によって生かされているのです。神様はどうして私たちを生かしてくださっているのでしょうか。その問いに明確な答えを出すことは一生かかってもできないと思います。ですが、自分のためだけに神様は私たちを生かしているのではないことは確かだと思います。自分だけが、自分たちだけが幸せになるために生かされているのではありません。神様のためにも、また、自分以外、自分たち以外のためにも、私たちは生かされているのだということに気付きたいと思います。生かされている命を、正しく使っていきましょう。