柔和なこころで

2014年9月14日主日礼拝「柔和なこころで」ガラテヤ6:1~5佐々木俊一牧師
■1節 「兄弟たちよ」という呼びかけは、新約聖書によく見られます。クリスチャンが主にある兄弟姉妹であるという考えは、聖書的なものです。パウロも、よく「兄弟たちよ」という言い方を使いました。ガラテヤのクリスチャンに対しても、「兄弟たちよ」と呼びかけています。もちろん、パウロは、「兄弟たちよ」の中に、当然、女性たちをも含めて呼びかけていたのだと思います。当時は男性優位の社会でしたから、このような呼びかけになってしまったのかもしれません。イエス様は、けっして女性をないがしろにはしませんでした。イエス様に従うパウロも同様に、女性をないがしろにするつもりはまったくなかったと思います。どちらかというと教会には、今も昔も女性の方が多いように思われます。聖書には、女性たちの信仰とその活躍も多く書き残されています。女性がいなければ教会が成り立たないことは、今も昔も同じだと思います。
   「兄弟たちよ」と呼びかけられることによって、人々はどのような感じを受けたでしょうか。親しさと仲間意識を感じさせる言い方ではないでしょうか。「上下の関係」ではなくて、「対等な関係」であることを思わせる言い方でもあります。命令調ではあるけれども、けっして、上から目線ではなく、一方的でもありません。人間としても信仰者としても、相手のことを尊び、大切に思っているのだという思いは十分に伝わってきます。牧師であろうと信徒であろうと、男性であろうと女性であろうと、若くてもそうでなくても、このような関係を持って信仰生活をともに歩めるように努めたいと思います。親しい関係と対等な関係と相手を尊び大切に思う関係は、お互いにプラスの思索と感情をもたらすものだと思います。それは、お互いに祝福する気持ちの表れであり、祝福する態度でもあります。
   「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」とパウロは言っています。「あやまち」とは罪のことです。罪の問題に関しては、神のみ前において自己吟味するのが基本です。救い主イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、私たちは直接、父なる神様に罪を告白し赦しを求めることができるのです。他の人に言う必要はありません。神様と自分との間には、イエス様以外のだれも入ることはできませんし、入る必要もありません。ただ、その罪の問題が他の人々や教会に対して悪い影響や危害を及ぼしている場合には、当事者にその事実を確認するとともに、悔い改めを促し、必要に応じて相手に対する謝罪や実際的な償いや社会的責任を求めることはあると思います。
   パウロがこのようなことを言うに至らしめた具体的な問題は明確には語られていません。推測できることとして、当時のガラテヤの諸教会の大きな問題は、ユダヤ教的な律法主義が入り込んでいたことです。律法主義とは、恵みによる救いではなく行ないによる救いです。ですから、赦しではなく裁きと縛りをもたらすものです。また、律法主義は、行ないに対する評価と上下関係をもたらすものです。5章において、パウロは、罪の行ないについて警告しています。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、このようなことをしている者たちが神の国に入れないことを警告しています。けれども、それは、人々がそのような罪の行ないに近づかないようにするためであり、また、そのような罪の中に陥っているなら、その罪を悔い改めて、正しい道に戻ることができるようにすることが目的であったのだと思います。もしも、クリスチャンの中にそのような人々がいたならば、柔和な心で正してあげるというのが、パウロの言っているやり方です。
   もしも、教会の中で、人々や教会に対して悪影響を及ぼすような罪の問題が起こったとしたら、私たちはどのように対処したらよいのでしょうか。律法主義的な対応をとるでしょうか。「あなたは、こんな罪を犯しています。あなたはもうこの教会に来る資格はありません。出て行ってください。」即、関係を断ち切るような対応をするのでしょうか。それとも、パウロが言うように、柔和なこころで正してあげるでしょうか。「私たちはあなたのことについてこのようなことを聞いています。本当でしょうか。もしも本当ならば、その罪を認めて悔い改めることをお勧めします。私たちにとってあなたは大切な仲間です。ともに教会生活をなし、ともに神様に仕えていきたいと願っているのです・・・。」キリスト教は、人を裁いて救いから落とす宗教ではありません。人を裁きはしますが、その裁きは悔い改めに導くためです。そのあとは、赦して、再びやり直すチャンスを与え、その人を建て上げるのです。
   ガラテヤの諸教会には、私たちが思う以上に、罪の問題があったのだろうと推測します。リーダーたちはどう対応したらよいのかわからず、また考えもまちまちで混乱した状態があったのかもしれません。そんな中で、律法主義者の影響は大きなものとなっていきました。そこで、パウロは、「御霊の人であるあなたがたは」と言います。「御霊の人」とは、前回お話したように、御霊に従って歩んでいる人のことです。御霊に従って歩む人は、御霊の実を結ぶのです。パウロは御霊の実を用いて罪の問題に対処するように導いたのだと思います。罪に対しては律法主義的な対応ではなくて、御霊の実によって対応するのです。それは、人々に、神の恵みによって罪から離れさせ回復を導くのです。パウロは言います。「柔和な心でその人を正してあげなさい」と。柔和は御霊の実のひとつです。
   「柔和なこころ」とはどのような心のことでしょうか。柔和を辞書で調べると、「やさしくて穏やかなさま」とありました。聖書辞典によると、「怒りや傲慢な思いを抱かない状態」、あるいは、「謙遜」と同義語とありました。「謙遜」とは、自分を低くすること、へりくだることです。そのような心で罪にある人々を正してあげるように、パウロは言っています。
   次に、パウロは、「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」と言っています。罪にある人を正してあげる際に、どのような誘惑があるというのでしょうか。みなさんはどうのように考えますか。いろいろ考えられると思いますが、私が思うには、一つは、人はみなそれぞれに弱さがあるのだということを自覚する必要があるのだと言うことです。自分は大丈夫という思いは、油断の何物でもありません。悪魔は巧妙に仕掛けてくるのです。もう一つについては、Ⅱコリント2:6~11にあることです。悔い改めるならば赦すというのがキリスト教のやり方です。11節によると、悔い改めているのに赦さないことは、悪魔の策略に引っかかることです。このようなところにも、悪魔の巧妙な誘惑があることを私たちは覚えておかなければなりません。悔い改めるのなら赦すのが、イエス様のやり方です。
■2節「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法をまっとうしなさい」
自分自身の信仰生活と教会生活を振り返ってみて、今に至るまでクリスチャンとして歩めたのは、自分だけの力と努力の賜物ですとは、けっして言うことができません。神様の助けがなければここまで来ることはできませんでしたし、今まで出会ったクリスチャンの方々の助けや交わりがなければここまで来ることはできませんでした。私のことを重荷と思った人々が過去に何人もいたのではないかと思います。私の弱さ、足りなさ、不完全さ、未熟さ、性格の悪い部分、罪など、これらによって重荷と感じた人は何人もいたはずです。よく我慢してくれたものです。ただただ、感謝するのみです。反対に、私もそのように重荷と思ったこともありました。しかし、その時は嫌でも、互いに重荷を負い合うならば、神様は私たちに良い実を結ばせ、刈り取らせてくださる方であることを私は学びました。
   互いに重荷を負い合って、キリストの律法をまっとうしなさいとパウロは言います。「キリストの律法」とは何でしょうか。イエス様はこの地上の生涯の終わりにおいて、あなたたちに新しい戒めを与えようと言われました。それは、「互いに愛し合いなさい」ということばです。キリストの律法とは、互いに愛し合うことです。私たちは、互いに忍耐し、赦し合うことなくして、互いに重荷を負い合うことはできません。また、ある時には、あやまちから正してあげることも重荷を負い合うことであり、愛することであるとパウロは言っているように思います。この時、あやまちを正してあげる方に求められることは、「柔和なこころ」です。穏やかでやさしいこころ、怒りや傲慢な思いを抱かないこころ、自分を低くしへりくだるこころが求められます。もしも、それがなければ、その時は、あやまちから正すために意見するのはやめた方がよいでしょう。そして、正される方も、それを拒まないこころを神様に祈る必要があるでしょう。詩篇141:5にこのようなみことばがあります。「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭に注がれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください」
   たとえば、夫婦の間でもしも互いに正してあげようと思うことがあったならば、今日のメッセージを思い出してください。私も思い出します。私たちは御霊の人です。柔和な心は既にあるはずですから、柔和なこころを用いましょう。それではお祈りします。